言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

育児日誌ブログ「母になっても言いたいことやまやまです」を毎週月曜日に更新中!

三社祭デビュー!関係ないけど子どもを「信じる」ということについても

こんばんは、三社祭ロスの時間です。

さんじゃまつり、と読みます。浅草寺のお祭りです。今年は知人のツテで半纏をお借りし、神輿を担がせて(というか触らせてというか…)いただくことができました。

恥ずかしながら、三社祭のことは浅草エリアに越してくるまで全然知りませんでした。お祭りといえば夏にやるもので、露店がずらりと並んで焼きそばが高くて、というものだと思っていましたが、三社祭は5月下旬に開催されますし、露店云々のエンタメ性が高いものではなく「お神輿を担ぐこと」がメインのお祭りです。いままで自分が触れてきた地元の祭りはナンパな盆踊り大会に過ぎなかったのだと思い知りました。エリアをあげて盛り上げるムード、命を懸けてと言っても過言ではないほどの気合いの入りよう……「これが本当の祭りなのだ」と、初めて見たときは感動したものです。

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知人の所属している町内会に混ぜていただくわけですから、どこか遠慮の気持ちがありました。お神輿を担ぐ体験をしてみたい、が、部外者の私ごときが神聖な神輿に触れるなどめっそうもないという想いがあったのです。

しかし皆さんあたたかくて、念願の神輿担ぎも体験させていただきました!

大勢で持っているのだから負担は少ないだろうと見くびっていましたが、肩にずっしりとかかってくる重みにびっくり。また、多くの人が担げるようにローテーションを誘導してくださる方もいらして、そのシステマチックな対応にしびれました。しかも担当されていた方が大変な二枚目で、これまたしびれました。

一方で、肩もしびれた。リズムをうまく合わせられず、担ぐというより「神輿の持ち手に自分の肩をぶつけに行く」ことになってしまいました。とにかくついていくのに精いっぱいだったので、肩の端っこ(骨の真上)が内出血。本来ならこんなところにできるはずがないと思います。素人感あふれる痣位置もまたいい思い出の勲章となりました。

しかし「担げていない」ということは周囲の方ががんばってくださったということですので、本当にありがたく思います。あたたかい。

朝のうちにお神輿は終了、その後はみんなで打ち上げに。ホッピー通りは割と高いという印象があるのでほとんど来ませんが、今日ばかりは最高でした。

数軒はしごしまして、あの「神谷バー」にも初訪問。もう有名すぎるお店ですから食レポを書こうという気持ちもなく、22時と早めの時間に閉店してしまうこともあって、なんだかんだで一度も行けていなかったのです。念願かなっての電氣ブラン。ストレートは同行者に分けてもらうことができたので、私は電氣ブランサワーにしてみました。空いている席にどんどん座れとのことで、デフォルトが「相席」です。でも面倒くさい方など全然おらず(たまたまかも)、無視するでもなく、ほどよくおしゃべりができて最高。浅草界隈に越してきて本当によかったなー。

 

ところで今朝、半纏姿の自撮り写真を母に送りましたら「その笑顔で1日過ごすように」という趣旨のお返事がありました。不快でした。

私は気分がすべて表情に出ますし、ちょっとしたことで苛立ちと悲しみを覚えるので、たいていつまらなそうな顔をしています。そのリマインドも兼ねた母の愛情ゆえのコメントだというのはよくわかりますが、不快でした。「宿題やりなさい」「わかってるよ!」現象です。宿題をやろうとしていても、家族の「やりなさい」という言葉によって一気にやる気を失う、あの現象です。

この不快はいったいなんなのでしょう。「信じてもらえていないことに対するモヤモヤ」というと、それらしく聞こえます。たしかにそういう側面もありましょうが、私はどうも違うように感じるのです。「見くびられている感」「バカにされている感」のような気がします。バカにされて「なにくそ」とがんばるパターンと、「じゃあもうやらない」とふて腐れるパターン。上記の宿題現象は後者です。

(今日は私は前者だったのかな。いや、がんばるがんばらない以前にとても楽しかったのでそれが表情にまるごと出ているはずですから、いい意味で「やる・やらない」の軸から外れることができました。)

誰かに嫌われたり、怒られたり、なにかそんな辛いことが起こらないように予防方法を教えてくれているのはとてもありがたいことですが、痛い目を見れば否が応でも学習します。その学習の仕方は「嫌われないように気をつけよう」かもしれないし、「こういうことをすると嫌われるのか、嫌ってくれて結構」かもしれない。でもなんらか、自分で納得した対策をとるはずなのです。そこは本人に任せていいのではないでしょうか。

都合のいいことを書きますが、その対策の仕方が自分に合っていなくて「どうしよう」となってしまったときに、「大丈夫」と包んでくれたらありがたい。でもそれは子どもの負の責任を背負うことにもなると思いますので、親に負担をかけてしまうのですけれど。

………という難しいことが私には到底できそうにないので、子育ては無理だろうなあと思います。自分で精いっぱいだ。そしてこの世の親は、みんなえらいのです。