こんばんは、懺悔の時間です。
なかなかにパワフルな後輩が柄にもなく悩んでいる風だったので、「今度憂さ晴らし飲みでもしようね」と声をかけてしまいました。本当に励まし会を開催したいならばその場で日程を提案すべきですが、私は「今度」のまま放置してしまったのです。
お察しのことと思いますが、私はその飲み会に前のめりではありません。以前もこのようなことがあり、そのときは昼食に連れ出しました。すると後輩から堰を切ったように愚痴が溢れ出し、こちらが発言する間はほぼなかったのです。
はあ、それは大変だ。ひー、それは辛い。ふーん、それは大変だ。へえ、それは辛い。ほー、それは大変だ。キャバクラ嬢の「相槌ハヒフヘホ(そんなものあるのか?)」状態で相槌を打つのみでした。後輩はそれだけ頑張っているのですから、励ましの意味も込めてもちろんご馳走しました。
私はとても疲れました。器の小ささに我ながら呆れ返りますが、疲れました。いろいろなものが搾り取られた感があった。その結果、後輩がまた色々溜めつつあるのをなんとなく察しながらも、愚痴カウンセラーになれる自信がなくなってしまったのです。
大人として情けなくはありますが、そこまではギリギリ許容範囲かもしれません。罪深いのはその先です。愚痴を聞く気がないなら「今度」などという適当な言葉を添えて「飲みに行こうよ」と誘ってはならないのです。これを偽善者と呼びます。後輩を気にかけているイイ先輩を装いながら、自分のことしか考えていないのですから。私の本性に気づいているからこそ、後輩は「いつ行きますか」と食いついてこなかったのだろうと推測します。
そんな自分を恥じるとともに、自分を支え、育ててくれた先輩や上司たちに思いを馳せています。私の一方的な愚痴をそうかそうかと笑いながら聞いてくれて、おいしいものや楽しいものを教えてくれた彼らの背中のなんと遠いことか。こっちがカウンセリング料を払わねばならないくらいなのに、ご馳走までしてくれて。心の構造はどうなってんだ。
私はまだ、後輩を心の底から思いやれる境地に至っていません。自分のことしか考えていない。彼らにご馳走するのは、彼らを想ってのことではなく、大好きな先輩方への感謝の気持ちゆえです。ご本人に直接のお礼をするより、私が後輩になにか貢献することを喜んでくれるのではないか……という、これもまたエゴなのですが。それに、ご馳走するのは簡単です。金さえあればいい。大切なのは気持ちを込められるかどうかで、そういう意味では私が後輩に奢るか否かは小さなことなのでしょう。
でも、小さな一歩だとは思うのです。趣味でもなんでも形から入る人というのがいます。ごはんをご馳走するところから始めて、本質は後から埋めてもいいんじゃないか……というのはやはり言い訳でしかないのでしょうか。
くどくど面倒な表現になってきてしまいました。簡潔にまとめます。
私はまだ愚痴書き飲み会を開催できる気力を持ち合わせていません。そんな気持ちのうちは飲み会やろうよなんて軽々しく言ってはなりません。懺悔の時間でした。