言いたいことやまやまです

仕事をやめ、誇りを持って主婦として生きることにした1985年生まれ。金儲け臭ゼロのブログで生きざまを書き綴っています。お金はいつでもほしい。

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正直者になりたい

こんばんは、正直者の時間です。

嫌われようがなんだろうが、もっと正直者でありたいと思うことが増えてきました。

私は自分の気持ちがすべて顔やオーラに出てしまうので、身内は「何をいまさら」と思っているでしょうが、大真面目に考えていることです。

他人の言葉をそのまま受け入れることが不得手なのです。それは時として自衛の効果もありますが、虚しく、寂しくなることのほうが多いのです。

なにか言われると、その裏を読もうと全力で推理をしてしまう。会社の全体会議で「やままさんのおかげで」と言われようものなら、私はコストセンター(金を稼がない部門)ですから、「ああ、やさしいなあ。こうして私のことを敢えてみんなの前で持ち上げることで、プロフィットセンター(金を稼ぐ部門)が悪く思わないように調整してくてくれているんだなあ」と思います。ポーズとしての称賛であり、本心ではありがたいなんて思っているわけがない、と考えてしまうのです。

ブログがおもしろいねと言われても、同様です。いやこれは社交辞令で本当はそんなこと思っていないはずだ、たかだか無名の小市民のブログなど誰も読むはずがないのだから、となります。

信じられるのは罵詈雑言だけなのかもしれません。「気が利かない」「かわいくない」その2つの言葉だけは一生信じます。

なぜこんなにも人の言葉を信じられないかといえば、私が正直者でないからです。似合っていない服であっても話題に困窮すれば適当に褒めますし、33にもなればママが多いので、私に子どもがおらず共感ポイントがいまひとつ掴めていなくても、子育てトークに「そりゃあ大変だ」くらいは言います。どんなにつまらない会食でも、翌朝誰より先に「昨日は充実した楽しい時間であった」旨のお礼を送るように努める。

大人として当然の社交辞令なのですが、私の本心とは違いすぎるポジティブな感想を重ねすぎたのか、「褒めてくれているけれど、私がそうであるように、きっとこの人も本心ではそんなことを思っていないのだ」と意識せずとも思うようになってしまいました。

猜疑心の根源が自分の「思考の癖」にあるのなら、それを断ち切らない限り、人の言葉を信じることができません。自分の心と口に”正直”というバイパスをつくり、それをメインで使うようにすれば、「私がそうしているのだから、この人もきっと正直な気持ちを言っているに違いない」と思えるようになるのではないか。そう考えたのです。

さて、こんなことを書いていると、私が称賛や感謝の言葉を贈った方々に「あのときのあの言葉は嘘だったのか」と思われてしまうはずです。「好き」という言葉を使うときは多くの場合、本心です。「好き」というのは使うのに少し勇気のいる言葉なので、本心であるときは、その証明をするためにも使います。じゃあ、ほかは嘘なのかと言われるととても困ります。本心であるときもあるし、嘘というか、”気を遣って述べたこと”であるときも多分にあります。

私がこのような有様であるように、多くの人もまたオベッカだけを述べているわけでも、本心だけを述べているわけでもないでしょう。ちょうどよく察することができたらいいのに、オール・オア・ナッシングな推測しかできない自分の不器用さが腹立たしい。

話が変わりますが、近しい人を信じられるか否かも、難しい問題です。

私は過去に2人、これから家族になろうかというパートナーに突然手のひらを返されたという女性に出会いました。そのうち1人は家族の挨拶も済ませていました。しかも、私よりも何年も先輩の方です。結婚や出産を意識していないはずがありません。

関係性が深くなると、相手のことを信じられるようになっていくものです。それがなんの前触れもなしに、突如として裏切られるとはどんな気持ちでしょうか。想像を絶します。人の生死に関わりますからそんなものに例えるなというお叱りもありましょうが、私は大地震に近いものがあると思いました。絶対に安全だと信じていた場所が消えてなくなる恐怖、それと同じだと思います。

私も、過去にお付き合いしていた人に(予兆はあったものの)突然別れを切り出されて気が動転したことがありました。理由のようなものはそれらしく述べていましたが、本心とは思えませんでした。地震と同じです。なんやらプレートのズレが原因だということはわかっても、ではなぜそのプレートがこのときにずれたのかは、わからないのです。そしてそれはこちらの努力では絶対に防ぐことができません。

大地震が起きても生き延びられるよう防災グッズを用意するのと同じく、突然の別離があっても翌日会社に出勤できるよう、家族や友人とのつながりを強固にしたり、生きがいといえるような仕事を見つけたり、なんらか、自らの存在意義を見つけておきたい。それしかできないからです。

でも、そうやってダメージを最小限に食い止めることができるならば、たとえ裏切られようとも人を信じたい。そしてそれができるようになるために、自分自身がまず正直者でありたいと思うのです。

正直というのはいい言葉に聞こえますが、己の正直さを理由に、敵意を向けられたり嫌われたり怒られたりすることも多いはず。嫌われたくない、でも他人を信じられるようになりたい、というのは虫のいい話で、痛みなくして自己改革は成立しないと思います。

とりとめなくなってきました。今日のところは一旦ここまでで……