こんばんは、バカの時間です。
しょうもない仕事、タスクが積み重なってため息をついてしまうような瞬間に、下のチョコラBBのCMを見ると少しすっきりする。「そうなのよ」。理解者が現れたような気持ちになる。
世の中○○が多くて疲れません?? チョコラBB CM 桃井かおり
私もバカだった
92年に放送され、クレームでお蔵入りになってしまったのちは「バカが多くて」が「お利口さんが多くて」に差し替えられたという。私は当時7歳だったので、記憶にない。
こんなに痛快なCMに非難が殺到するとは! みんな心のなかでは「そうなのよ」と思っているはずなのに、体裁を気にして、正義感をふるって、放送中止に追い込んだのだ。バブル崩壊直後の日本もなかなか大変だったのだなあ。と思っていたのだが、
「まるで自分のことを馬鹿にされたようで不愉快だ」という苦情が主だったらしい。
(世の中、バカが多くて疲れません?『高慢と偏見』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる より)
と知っておどろいた。ちょっとショックも受けた。私自身が「他人をバカだと思うことで自分のポジションを高いところに置こうとするバカ」だと悟ったからだ。
怒りや罪悪感は幻肢痛のようなもの
あのCMを観てすっきりしたり、怒りを覚えたりしているうちは、我々は自我の奴隷である。
私たちには生まれながらにして、唯一無二の存在価値がある。誇張しなくても、守ろうとしなくても、絶対になくなることがない価値。
しかし成長過程でさまざまな危険と遭遇するたびに「存在価値が奪われかねない」「失いかねない」と疑心暗鬼になってしまう。その疑いと比例して大きくなるのが「自我」である。
自我は絶対神になろうとしている。神のことを「間違いや失敗がなく、誰より優れており、崇拝される存在」だと定義づけている。
だから自分の身体が間違いや失敗を犯そうものなら「私にそんなことがあってはならない!」と鞭を打つ。逆ギレの怒りや罪悪感の憂鬱は、自我の鞭打ちに引き起こされた痛みだ。
なにかを測るときに使うのは決まって「相対評価」というものさしで、誰かに負けていることがわかると、これまた、自分の本体を鞭で打つ。その痛みはいらだち、嫉妬、憂鬱、戦線離脱となって現れる。
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バカだと思われても存在価値はなくならない
「世の中、バカが多くて疲れません?」
私は自分の社会的評価(相対評価)が「バカ」にランク付けされるのが嫌だ。見捨てられる気がして、蔑まれる気がして、怖い。
だから誰に見られているわけでもないのに、「そうそう、そうなのよ」と桃井かおりサイドに立ってCMを見つめてきた。
でもいま、変わろうと努力をしている。考え方を変えたい。わざわざ辛い考え方を選んで眉間にシワを寄せた人生を送りたくない。愚痴なんてものは、笑い話に昇華できなければ何の役にも立たない負のゴミクズだ。
存在価値は何があってもなくならない。
私にバカだ、使えないという評価を下す人もいる。それは絶対にいる。それが嫌で、その評価を挽回したいとどんなに足掻いても、私がその人になれない以上はなすがまま、うりがぱぱで過ごすしかない。
他人の気持ちは変えられない。「バカだと『思われないようにする』」ための数々の施策で消耗するのは不毛である。
バカだと思われようとなんだろうと、自分にはゆるぎない存在価値がある。この事実を忘れずにいれば、真の意味でのバカにはなるまい。
CMを観て「まあ、いろんなひとがいるよねえ」と反応できるようになったら、自我から解放されてきている証拠と捉えていいのかな。
世の中にバカが多かろうと利口が多かろうと、それで疲れるのは自分の思考癖のせい。チョコラBBが効くかどうかはあなた次第です。
▼「スゴ本」さんがこのCMをフックに紹介されていた本。アンリミ対象だったのでポチりました