言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

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専門家にならないとだめですか

凡人の星になる: 月間10万PVの雑記ブロガーが「凡人」を武器にするまでの七転八倒

こんばんは、凡人の時間です。

いつものようにラジオでニュースを聴いていたら、出演されている方が「私は●●の専門家なので」という表現を使っていて、そこからぐるぐると考えごとをはじめてしまいました。

 

専門家にはなれない

公共の電波に乗せて専門家だと名のれることを、「すごいなあ」と思いました。まえまえからそんなシチュエーションは数多あったのですが、「凡人」というテーマでいろいろな考えごとをしていたのもあって、たまたま気に留まったのでしょう。

私には専門家 (プロ) だと名乗れるようなスキルやナレッジはありません。

もちろん、いただいている仕事に一生懸命取り組んでいる自信はあります。でも力量的にはセミプロ、ふつうよりちょっとできる、程度のものじゃないかなあ。

会社員時代に「プロとして仕事をせよ」とか「広報のプロのやままさんにご相談が」といった話を振られるとつらい気持ちになったものです。専門家にならないといけないから。

仕事なんだからがんばれよというお叱りはごもっともです。ただ今日は思うままに、素直な気持ちを書いてみます。

会社員のころは、自社商品や業界のことなど、特定のジャンルについて研究すること、知識を蓄えること、責任を持つこと、全部が苦痛でした。だって、そんなに好きになれない。

好き嫌いの感情で仕事をするなと怒られそうですが、「我慢して勉強していること」なんてのは、記憶に残らないし、いい仕事にならない気がします(お子ちゃまな私の場合は)。

もちろんそれなりに歳も重ねるなかで、そう思ってしまう自分に罪悪感もありました。

子どもじゃないんだから、お金をいただいておいて責任から逃げるような態度はいけない。腹をくくって、業界知識を学んでいかねばならない。プロとして発言しなければならない!

専門がないフリーランス生活、はや半年

会社員をやめて半年になります。

ありがたいことにCo-Edoをはじめとする組織や人にお仕事をいただいているのと、とにかく主人が養ってくれていることで、なんとか暮らしていけています。

会社を辞めてフリーランスになるならば、ふつうは肩書きが必要です。でなければ仕事は来ない。会社員時代よりももっと「専門家」であることが大事です。

でも私、いまだに肩書きが定まらないのです。

書き起こしのお仕事などをしていることも踏まえて、「(広い意味での) ライター」と名乗って逃げることが多いのですが、いわゆるWebライターのお仕事はしていません。プロブロガーと呼んでいただくこともありますが、収益をぜんぜん考えていないので、月2~3万くらいのおこづかいしか稼いでいません。

かといって専業主婦なわけでもない。

「いまはどういう仕事をしているの?」と聞かれたときは非常にしんどい(返す言葉に悩むので)ですが、会社員時代と比べて仕事に向かう気持ちがずいぶんラクになりました。気負わなくなったからです。

前職だったら「私は広報担当なんだから●●のことくらいわかっていないと……」「新聞を読んで各紙のコーナー名と内容を覚えておかないと……」といったプレッシャーが、日々、ありました。

このぬるさがいつまで許されるかは疑問ですが、当面は「なんの専門家でもない自分」でいさせてもらおうと思います。

専門家ではない人は市場価値がない

冒頭の「ラジオに出演していた専門家」の話に戻ります。

彼は専門家だから、みんなが知らない専門知識を活かしてニュースを解説してくれるから、ラジオに呼ばれている。

テレビも、雑誌も、本も、日々行われている各種のイベントも、同様です。それらがコンテンツとして成立するのは、「その人が専門家だから」なのです。

では専門家ではない私は、いったい何者なんだろう。そこまで考えて、「ああ、やっぱり凡人だ」という言葉に落ち着きました。

……そんな凡人には、市場価値がない?

セミナーひとつとっても、凡人の私では成立しません。教えられることなんてなにもないから。専門家ではないから。人も集まらないしお金もいただけない。

人間、売上を立てて生きていくためには、なにかの専門家にならなければならないのか……。

「薄く広く」には価値がないの?

私は専門家ではありません。だからきっと市場価値が乏しい。それはよくわかりました。でも本当にそうなんだろうか?少し食い下がりたい気持ちが湧いてきました。

「いろんなこと知ってるねえ」

そう声をかけていただくことが、ちょこちょこ、あるからです。

何ひとつ詳しく語れないけれど、興味の幅はかなり広いほうだと思います。単語を知っているレベルであっても、その単語を入り口にして、会話をふくらませることはできます。(相手に「教えたい」という気持ちがないときは難しいけれど)

「狭く深く」は立派なことです。それは間違いない。では「薄く広く」は無価値なのでしょうか? なんだかそうとは思えません。

ここで凡人の「凡」という字の意味を引いてみます。

「一般的、目立たない、普通」のほかに、「全体を通じて、おしなべて」という意味もあるのです。

……「凡人」って、そういうことだ。専門的に語れないけれど、幅広く全体についていけるかんじ。これは無価値ではない気がする。

凡人がコンテンツになる道はきっとある。それを探してみようと思います。

まだ考えが理路整然となっておらず、一旦この状態で今日のところは筆を置きます。筆使ってないけど。

oggi.jp