こんばんは、いい質問ですねの時間です。
私は質問が著しくヘタです。「なにか質問はありますか」と問われると戸惑ってしまう。話を咀嚼して飲み込むのに時間がかかるのです。帰り道でハッとして「あ、これ聞いておけばよかった」なんて思えたらいいほうで、ずいぶん時間が経ってから「そういえば」ということになる。おそらく、想像力が乏しいのです。実践の場になって初めて疑問を抱ける。当然、「いい質問ですね」なんて褒められたことはありません。「質問できない」は私の大きなコンプレックスです。
さて、ゲームの説明書はいつ読むかという話に移ります。
- 遊ぶ前に読む
- 遊びながら読む
- 読まない
「想像力が乏しく、実践の場で疑問を抱く」などと書くくらいですから、私は2番の「遊びながら読む」型です
……と、言いたいのですが、おもいきり1番です。でも2番でもある。
これはどういうことかというと、生真面目というか、型にはまった人間というか、「こうあるべき・こうせねば」思想にとらわれているというか、なにしろそういう性格ゆえに「遊ぶ前に一読する」のです。そうしないといけない気がしてしまう。でも想像力がないものだから、「文字を目で追う」以上のことができていません。結局、遊びながら説明書とゲームを往復することになります。
(ちなみにRPGであれば「完全ルート」を通らないと気がすまないので、完全版の攻略本が出てからそれに沿ってプレイするという、まったくもって冒険感のない楽しみ方をします)
ふと、このプレイスタイルは自分の弱点を物語っているなと思ってメモしている次第です。「遊ぶ前の一読」はセレモニーでしかなく、それ以外の意味がありません。でもそうしないといけない気がしてしまう。
先月「正しい自己肯定感を養えているか?(デイ・キャッチ!宮台真司さんコーナーのメモ)」という記事を書きました。そこにこんな一文を記しています。
社会学者のニコラス・ルーマンによれば、自己肯定感(尊厳)には2種類あります。
A)自由な試行錯誤によって養われたもの
B)崇高なものと一体化することによるもの
AがあればBは不要。Bというのは、Aのない人が埋め合わせで使っている「尊厳」です。
「そうしないといけない気がしてしまう」というのはまさにBです。社会の決まりとか、どこかで聞いた「こうあるべき」 に寄りかかっているだけで、自分の判断ではないからです。
話を、冒頭の「質問するのが苦手」というところに戻します。
実践の場になれば疑問が湧く。だから質問ができる。……はずなのですが、私はここでためらうのです。質問するのに勇気がいる。
「いまさらこんなことを尋ねるなんて、こいつはなんて馬鹿なんだ」
「話を聞いていたのだろうか?」
「そんなこと聞かなくても、類似例から推察できそうなもんだろうが」
「理解力が低い人だなあ……(信用できないな)」
そう思われやしないか、いや、そう思われるのだ。そう思われた私はどうしたらいい?どうしたら挽回できる?
そんな考えでいっぱいになってしまって、脈が一気に早くなります。手足の血の気がサーッと引いていくのがわかる。でも聞かねば先に進めないから、聞く。そのときは深呼吸必須です。何を大げさなとお思いでしょうが、本当です。毎回が清水の舞台バンジーです。
「正しい自己肯定感」があれば、こんなしょうもない悩みは抱かないはず。いまからでも養えるものなのか?不安に思ったら負けだよなあ。やるしかないんや、ないんやで!疑問に思う→質問する のスピードを少しでも早めよう。
と、書くのは易し。実践することのなんと困難なことか……(負けない、負けないぞ)