言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

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【日記】タスクリストを断捨離した

毎日をとても無駄に過ごしている気がする。

そんなことを思うようになったのは決して最近のことではなく、何年も前からの悩みだった。やりたいこと、やるべきことはたくさんあるのに、全く消化できない。気づけば1日が終わる。そんな毎日を重ねている自分が嫌でたまらない。

このままではダメだ、と一念発起してはライフハック本を読み、タスク管理術に興味を持ち、実践し、投げ出す、というループを何周繰り返したことか。

Googleカレンダーのタスクリスト、Taskchuteはとうの昔に挫折した。いまは結局、付箋を使った地球に優しくないタスク整理法と、Togglでの時間管理の併用で落ち着いている。

しかし問題は「どんなツールで管理するか」ではなく、「管理すべきタスクの多さと消化率の低さ」なのだ。

放っておくと、タスクはどんどん増えていく。焦燥感が募るばかりだ。増えるばかりのタスクに優先度をつけていないから、結局あっちもこっちも手を出して、どれも終わらない。達成感ゼロどころかマイナス。ああ、私はなんてダメな人間なんだろう!

 

自信のない自分 減らないタスク

毎日毎日、ただ時間ばかりを消費して何もできていない自分。歳だけとって、1歳、また1歳とババアになっていく自分。一度きりの人生なのに…こんなところで立ち止まっている自分が嫌で、悔しくて、変わる糸口が欲しくて、カウンセラーの先生に相談した。

セルフイメージの低さは、いろいろな「負」のタネを引き寄せてしまう。やるべきことはその逆、セルフイメージを上げること、なのだと教わった。

私は自分のことを「学歴だけある無知馬鹿」だと思っているのだが(世界地図を提示されると実にまずい、歴史の話はもっとまずい。政治も経済も非常にまずいし英語NG、読書も嫌いです!うんこ!)、そのネガティブなセルフイメージを変えない限り「目指す自分の姿」「こうありたい自分の姿」には近づけないらしい。

まずは、思い込み先行でいいから「自分に自信を持つ」。

そのうえで、そんな「”逸材”である自分」が心から興味のあること・やりたいことをタスク化することから始めてみては、とのアドバイスがあった。

 

……となると、相当量のタスクを一旦除外することになる。詰め込みすぎてキャパシティオーバーし、「今日も達成できなかった私」に打ちひしがれ、セルフイメージを下げているのだから、大変有効な手段だろう。

「やりたいこと」に絞ったシンプルなタスクリストから、スタート。毎日のリスト達成が習慣化してきたら、新たなタスクをプラスオン。少しずつ自信を増やしていくのだ。

 

よし、とタスクリストを見返した。「やりたいこと選抜総選挙」の開幕だ!…と気合十分だったのに、項目は全然減らなかった。どれもこれも大切、「やりたいこと」なのだ。

悩んでいたところに「タスクリストの項目の多さは、”何もしていない自分はダメだ”という気持ちの表れでは」とのアドバイスをいただく機会があった。

タスクを改めて見てみると、「やりたいこと」という言葉の裏に「”やるべき”こと」「”やらねばならない”こと」という「念」のようなものが滲み出ていた。

「(無知だと思われたくないから)新聞を読む」
「(バカが露呈したら恥ずかしいから)歴史を勉強しなおす」など、など。

これは果たして、本当に「やりたいこと」なのか?

 

 それは「おもしろい」か?

「やるべきだからやる、役に立つからやる、ではなく、”おもしろいから”やる」。

先生は自身が習慣化していることを例に出しながら、タスクリスト選抜基準を提示してくれた。

一時期「どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法」を実践していたそうだが、お相撲さんじゃあるまいし、「開脚できなきゃマズイ」ということはない。ただ単に「おもしろいから」という理由で習慣化していたという。

この話が、実にしっくりきた。「おもしろい」からやろうと思う。続けられる。達成感を重ねてセルフイメージを上げる、というそもそもの目的に適っている!

習慣化にあたり壁となるのは「実践の挫折」なわけだが、「やるべきこと」に対する挫折は自分を責めるきっかけとなり、セルフイメージが下がってしまう。しかし「おもしろいこと」であればどうだろう。「挫折」という2文字に違和感が湧いてきやしないか。挫折ではない、「おもしろくないから、やめる」というだけのこと。自分を責めるほどのことではない。セルフイメージダウンは最小限にとどめられそうだ。

仕事の都合などでどうしても、本当にどうしても、というレベルでやらねばならないことを除き、もっさりとしたタスクリストに「自分にとっておもしろいかどうか」というフィルタをかけてみた。

新聞を読む、毎週図書館に行く…無知馬鹿な自分にとっては、まだ「おもしろい」の境地に至りませんでした。実際、ほとんど実践できていなかった。社会人にもなって新聞を読む習慣がつかなかったんかい、というツッコミはありましょうが、とりあえずタスクリストから消去。

…なのだけれど、この「消去」にまあ、労力のかかること。消そうとするたびに「でも、やらないとマズイし…」ともう一人の自分が消去作業を妨害してくるのだ。

その自問自答を通じて、「新聞を読む」という実践されていないタスクが「自分を守る武器」として機能していたのだと気づかされた。武器、というと言いすぎ、「自分を守る”言い訳”」といったところか。

「私は無知で馬鹿だけど、新聞を読んだり図書館に行ったりしようとしているから(努力している、なのでただの無知馬鹿ではない)!」

実践していないなら、無知で馬鹿という事実は何も変わらないのにね。情けなくなって、一呼吸おいてから、ひとつひとつ武装解除していった。

「それはおもしろいか?」

自問自答しながら、タスクを断捨離。だいぶスッキリした。

 

自分を信用することで「自信」をつけよう

同時に、丸腰になった不安もある。タスクという言い訳で防御していた己の無知さ、馬鹿さ。これまでは、「やらなきゃいけないから」とザーッと情報を取り入れて、なんとかかんとか、上辺の知識で対処していたけれど、それができなくなる(というと語弊があるか。やろうと思えばやればいいだけだ)。

でも、「無知な自分」ってそんなに悪いことなんだっけ?単に自分が自分を許せないだけ、恥ずかしいだけのことなのでは?

わからなければ聞けばいい。「そんなことも知らないの!」と言われるかもしれない。だからなんだと言うんだ。「そうなんです、知らないんです、だから教えてください」でいいではないか。

「こんなことも知らないような奴とは付き合えん」と思われたらそれまで。でもみんながみんなそう判断するだろうか?家族や親戚、大事な友人、先輩後輩の顔が思い浮かぶ。少なくとも彼らは、そんなことを基準にして私と付き合ってくれているわけではない。きっと、私の別の側面に絆を結んでくれている。

自分に自信を持つ、というのはハードルが高いけれど、まずは「何もできない自分」を信じてみよう。

スカスカになったタスクリストを見つめながら、そんなことを思いました。