■これまでのあらすじ
かねてより気になっていた、東銀座にひっそりと佇む大衆とんかつ店「豚児(とんじ)」。
たまたま前を通りかかった際、店じまいの告知チラシが目に飛び込んできた。
驚きのあまりそのまま入店し、味わい深いお店の中で、名物の「ランチ」(600円)をいただいたのだった。
※ランチ(税込600円)
お店とともに歴史を重ねたご主人。
たったひとりで厨房と客席を行ったり来たりしながら切り盛りするさまが印象的で、再訪を強く心に誓いながら、絶妙なとろけ具合のハムエッグに舌鼓を打ったのだった。
※本日の目次
■翌日、再訪 ~まだ見ぬ一品を求めて~
たった600円の「ランチ」に感動した翌日。
私は再び「豚児」の前にいた。
連チャンならぬ、連トンだ。
「アレッ、昨日も来ていた人?」などと思われたら、チョット恥ずかしい。
もう少し日にちをおいてから再訪しようかとも考えたが、豚児さんの閉店はすぐそこまで迫っている。
「いつか行こう」は「いつまでも行かない」と同義語!
それにそもそも、昨日も来ていたと思われることの何が恥ずかしいのか!
さらなる「そもそも」を考えれば、豚児さんの閉店を惜しんでたくさんのお客さんが訪れているはずなわけで、新参者の私を覚えていただいている可能性など、ほぼ皆無であろう。
「私の存在が記憶されているに違いない」という奢った考え方をしたことが恥ずかしい。
またしても自意識過剰の病である。
と、それはさておき2度目の豚児さんである。
初回訪問で色々と学びを得た今、私には2つの大いなる野望があった。
1.「定食」とは何なのかを解明すること
※何が違うんだ・・・
2.バリエーションの幅を探るため「一品料理」を追加すること(玉子焼狙い)
※玉子焼単品は40円・・・ではなく、400円
よし、と心の中でつぶやき、前日よりは少し慣れた手つきで、豚児さんの古い扉を開ける。
正午前、先客は2名。
相変わらずご主人は奥の厨房で調理に励んでおり、いらっしゃいませの声もない。
初回訪問時と同じ席に勝手に座り、ご主人が厨房から出てくるのを待つ。
その一連の流れは、我ながら堂々としたものであった。
前日の初訪問の際は
「勝手に腰かけてよいものなのだろうか」
「厨房に向かって大きな声で注文しなければいけないんじゃないか」
などなど、終始ソワソワとしたものだが、いまの私にそのような焦燥感は皆無!
でんと構え、お茶を持ってきてくださるご主人にこう告げるのだ。
「定食と卵焼き」
できれば「ごはんの量は半分」という一声も添えたいが、それはご主人の繁忙状況に合わせよう。
シミュレーション万端、のはずだったのだが、突如として不安感にさいなまれる。
理由はメニュー表の飲み物欄。
「ビール 中」の文字だけが輝いている。
※失われたコーラ
調べたところによると、豚児さんは11時半~6時ごろまでの通し営業。
これは・・・「一品料理=お酒のつまみ」のニオイがする・・・。
ドヤ顔で「定食と卵焼き」と告げたところで、返ってくる答えは
「一品料理は、昼、やってないんだ」
の可能性、あるぞ・・・。
それはダサイ。避けたい。どうしよう。
そうこうしているうちにご主人が厨房からやってきて、温かい緑茶を目の前に差し出しながら
「何にしましょう」
とひと言。
ここで「えっとー」などと言わずに、ご主人の問いかけからカンマ2秒、否、むしろ食い気味にオーダーを告げたい!
ぐるんぐるんと脳みそを引っ掻き回し、出てきた言葉は
「昼も一品料理、あるんですか」
だった。
いい感じかどうかはさておき、自然な流れで「ドヤ顔台無し」への予防線を張ることができた。
「今は、やってないんです」
や、やっぱり駄目だった!伺ってよかった!
それにしても・・・さあ、この先どうする。
ええい、ままよ!と、勢いでストレートな質問を投げてみた。
「“定食”って何ですか」
「バラカツです」
ちょっと忘れかけていたが、豚児さんはその名に豚があるとおり、とんかつ屋さんなのだ。
とんかつ屋さんの「定食」。そりゃカツが出てくるのは当たり前だろう。
でも、「バラカツ定食」ではなく「定食」という名前なんだなあ。
・・・ここへきて白状すると、私はとんかつが大好物というわけではない。
豚もフライも大好きなのだけれど、豚は「焼き」スタイルが大好物。
(ならばとんかつ屋に行くなというご指摘、ごもっともであります)
バラカツかァ・・・どうしよう・・・。
ふと、こちらの丼ぶりものはなぜかお重に入れられて提供されることを思い出した。
※「東京のむのむ」さんには、銀座界隈のおいしそうなグルメ情報がたくさん!
お重入りの丼もの、見てみたい。
よし、これだ。
「そしたら、親子丼を」
「いま、やってないんだ」
そうか・・・。ならば趣向を変えて、
「焼きめしは・・・」
「それもやってない」
・・・困ったぞ・・・。
「豚児さんで提供中のメニューはどれでしょうか!?」と書かれたパネルが見えてくる。
ここは「笑っていいとも!」収録中のアルタスタジオ?
それとも「アッコにおまかせ!」収録現場か?
「はい、消えたー!」キンキンの声が耳の中に響く。楠田さんの笑顔が眩しい。
ご主人はなにしろ1人でお店を回している。お忙しいのだ。
私のクイズタイムに貴重な時間を分けていただくわけにはいかない。
どうする、どうする!
「いまあるメニューって、どれなんでしょうか・・・」
初回訪問時以上にビギナー感、丸出しだ。
恥をしのんで小さな声で投げかけた質問にご主人、
「とんかつだねェ・・・」
と、ぼそり。そりゃ、そうだ。とんかつ屋さんだもの。
「ランチもよく出るよ」「魚フライはアジだよ」とやさしいアドバイスをいただくも、ここはやはり初志貫徹でいこう。
「定食をください」
ハイ、と短い返事とともに厨房に帰っていくご主人の背中を見送り、手元のメニューに視線を落とす。
その他御注文に応じ調理致します。
在りし日の面影。
豚児さんは間違いなく「店じまい」に向けて歩み始めていることを実感する。
■「定食」とは何なのか
正午をまわると、豚児さんを愛用する男性客が次々にやってきた。
年齢もさまざま、服装もさまざま、人数もさまざま。
4人掛けのボックス席ばかりの店内にもかかわらず、おひとりさま同士を相席させないのが豚児イズムなのだろうか。
空間はスカスカなのに、あっという間に満席状態。
新たに入って来ようとするお客さんはその様子を見て、「また来まーす」と踵を返す。
かと思うと、常連さん同士が偶然お店で居合わせ「一緒に食べていい?」なんて言いながらひとつのボックス席におさまるケースも。微笑ましい。
そしてお待ちかねの「定食」が完成!
※定食(税込600円)
メインのバラカツは、少量のキャベツとポテサラが添えられている。
そこに小さな冷奴と、味噌汁、ごはん、おしんこ。
相変わらずの「お盆なしスタイル」なので、ご主人が厨房と客席を2~3回往復しながら、一式を届けてくれた。
そういえば、ごはんは半量希望である旨を告げそびれてしまった。
しかしおかわり有料のお店も多い中、どんぶりに目一杯盛ってくれるごはんは大食漢の方には嬉しいだろう。
目の前のボックス席のおじさんは「(ごはん)ちょっと多い」と告げていた。
ご主人がごはんを減らし、「こんなもん?」「うん」といった小さなやりとりが。
訪問2度目の私には、到底マネできないテクニック!
今回はおいしく完食させていただこう。
しっかりと揚げられた、色の濃いバラカツ。
マックフライポテトはカリカリのところが好き、という方にはきっとたまらないはず。
水分多めのポテサラをつけながらいただいてもおいしいし、ソースをかけ、白いごはんとともにいただくのも良い。
よく揚げられたフライのカスと、ソースの足跡とともにいただく白米のおいしいこと。
揚げ物とごはんの相性って、どうしてこうも良いのだろう。
たった600円で「いま、とんかつを食べている!」と実感できる、このボリューム。
添えられている冷奴やおしんこで、口の中がリセットできるのもありがたい。
■オッサンになれなくて
半分ほど食べ進めたところで、ふと、自分の懐事情が気になった。
・・・1万円札しか、ないかもしれない・・・。
バラカツを咀嚼しながら手元の財布を静かに開けると、無愛想な福澤先生のお姿。
野口先生の姿は見当たらなかった。
ごくりとバラカツを胃に押しやるとともに、心がざわつき始める。
「おつりがない」事件が起こったら、どうしよう。
おつりがあるにしても、昼の忙しい時間、たった1人でお店を回すご主人にお手間をかけてしまうのが心苦しい。
それより、なにより、こうしたお店に小銭を持たずに来るという行為がスマートではなく、つくづく自分が嫌になった。
私はおじさん、否、愛しさと尊敬の念を込めて・・・「オッサン」が好きだ。
かつてドトールでアルバイトをしていたころから、コーヒー代をポッケからジャラジャラ出すさまに憧れていた。
あんな感じで、馴染みの定食屋さんや喫茶店に行ってみたい。
そう思っていたのにこのザマである。
ご主人は相変わらず、忙しそうに厨房と客席を行ったり来たり。
このテンポを、私の1万円札で台無しにするんだよな・・・。
食事を終えて、ついにその時を迎えることに。
かろうじて財布の底から見つけ出した100円玉を握りしめ、レジに向かった。
「本当にすみません、1万100円でも、大丈夫でしょうか・・・」
小さな声でそう告げた。
なるべく常連さんたちに聞かれたくなかったのだ。恥ずかしかった。
わかってねェな、やれやれ、と思われたくなかった。
「大丈夫ですよ、細かくなっちゃうけど」
お忙しいはずのご主人は、ごく自然に1万円札を受け入れてくれた。
ほっと安堵したものの、9枚の1000円札を数えてもらう時間が申し訳なかった。
厨房の揚げ物、大丈夫だろうか。
挨拶もそこそこにご主人は厨房に戻り、何事もなかったかのように、あっという間にいつものペースに軌道修正してしまった。
くるりと見回してみれば、どのお客さんも、ご自身の目の前にある揚げ物に食らいついたり、煙草で一服したり、仲間と他愛ない話をしたり、自分自身の時間を過ごしている。
私が1万円札を使っていようがいまいが、そんなことは彼らの気に留まるようなことではなかったのだ。
お店を出て、ひとつため息。
人の目ばかり気にする我が器の、なんと小さなことか。
それに引き替え、オッサンたちの大いなるマイペースっぷり。
確固とした己の時間を持っているところに、憧れの気持ちを抱いてしまうのかもしれないなあ。
■泣いても笑っても4月末まで!豚児さんの思い出はいつまでも
オッサンたちが手軽に安価に、自身にカツを入れる(とんかつ屋だけに)場であった豚児さん。
長年にわたり愛され続けてきたことはわかるのだが、お店では「創業●年」といった歴史を一切謳っていない。
そこが、好きだ。
お料理はもちろんおいしいが、絶品!ほっぺたが落ちそう!などと称賛できるかと問われると、返答に困る。
新参者の私にとって、「居心地がいいお店」というわけでもない。
東銀座という立地を忘れる低価格ぶり、ご主人がおひとりで作っている雰囲気、常連さん同士の他愛ない会話、TVから流れてくる微かな音声、決してきれいとは言い難い店内・・・ひとつひとつに感じる、一朝一夕では作れない「皺」にも似た、時間の積み重なりがたまらないのだ。
一言で表現するならば「忘れられないお店」というのがしっくり来る。
忘れられなくて、また来たくなるお店だ。
いつの間にか東銀座の景色のひとつになっていて、お客さんひとりひとりにとって、かけがえのないお店であるはずの豚児さんが、今月で閉店。
この文脈のまま「それは常連さんたちにとって大きな喪失で・・・」などとドラマチックに書いてしまいたいが、常連さんと思しきお客さんたちの姿を思い浮かべると、「ま、なるようにしかならんからね」と、豚児さん閉店後の東銀座をそれなりに楽しんでいそうである。
ただ、豚児さんの佇まいやご主人の活躍ぶり、しっかり揚げられたフライの味は、たとえ微かであっても、ひとりひとりの記憶に残るんだろうな。
忘れられないお店、豚児さん。
今月中にぜひともまたお邪魔したい限りです。