地元の大衆居酒屋にふらりと入店。
初めて訪れるお店だったが、壁にずらりと並ぶ短冊に書かれた「新さんま」「スタミナ串」の文字に心が躍った。
カウンター席に腰かけたのはいいものの、お酒のオーダーも忘れ、壁の短冊を眺めては注文を悩み、きょろきょろしてしまう。
「ごめんなさいね」
そこに降ってきた、お店のオバチャンの声。
手にはおしぼりとメニューが握られ、スッと目の前に差し出していってくれた。
こうして書き記すだけであれば、何も違和感のない接客の流れである。
しかし、私の心はざわついていた。
居心地の悪さ
言葉の裏に何かが感じられたのだ。
「(本来はお客様が着席された時にスッとメニューとおしぼりを出しながらオーダーを取るべきであるはずなのに、それができなかった私で)ごめんなさいね」
という具合である。
胸さわぎを感じながらもハイボールを注文。
ややあってから、別のおばちゃんがグラスを持ってきてくれた。
新入りという感じではなかったけれど、明らかに下っ端という雰囲気で、「おまたせしました」の声もどこか遠慮気味。
「食べ物もお願いしていいですか」
ハイボール受け取りついでにオーダーしようとする私に、下っ端おばちゃんが「はい」と言いかけたところで先ほどのおばちゃんが登場。
「こっちは私がやるから、あなた、あちらへ」
小声(といっても大きいのだけど)で下っ端おばちゃんに声をかけ、「はい、ご注文どうぞ!」と私の前に立った。
下っ端おばちゃんがなぜ遠慮気味な雰囲気を醸し出していたのか、わかった気がする。
さて、私の目の前にいるおばちゃん。
ここはその雰囲気から「ベテラン」さんと呼ばせていただこう。
ハキハキとオーダーをとってくれたベテランさんが纏っている、ハキハキならぬ「ベキベキ」オーラこそが、私のざわざわした気持ちの原因だとわかってきた。
彼女に非があるわけではないのだ。むしろ、終始懸命に働いている様子が伺えた。
空いた皿を下げ、率先してオーダーを取りにいく。
使っている言葉は過剰な丁寧でもなし、そっけないわけでもなし、ほどよいところだろう。
でもどこか、距離というか、「壁」を感じるのだ。
ベキベキの呪い
きっと、「この場のリーダーである私が、全注文を把握しておくべき」という妙な責任感というか、気負いだ。
そうした姿勢はまじめで大変結構なのだが、気負いすぎているがゆえに「下っ端のあの人には任せていられないわ、凡ミスばっかりなんだから!」という心の小ささというか、他人を許さない、攻撃的になる側面が見えてしまう。
「ベキベキ」は「呪い」である。
呪われたら最後、日々のありとあらゆる場面で「こうあるベキ」に囚われることになる。
その日は、よく飲み食いする60代と思しきおじさん2人組が来ていた。
彼らが帰ったのち、テーブルを片付けながらベテランさんは呟くのだ。
「それにしてもよく食べるし飲むし、びっくりしちゃうわよ」
気のせいか、声色には「ありえない」という、彼らを見下す想いが含まれているように感じられた。
近くにいた大将は
「みんな、あんなお客さんだったら(お店の経営的に)ありがたいんだけどねえ」
と呑気に応じる。
大将はシンプルに「そんなお客さんも、ひとつの風景(むしろうれしい)」として流しているのだけど、「ベキベキ」に呪われているベテランさんは、そうはいかない。
彼女の中には「うちの店の注文内容・滞在時間はこのくらいであるベキ」という基準値があり、先ほどのおっさんたちは、そこに当てはまらないイレギュラーケースだったのだろう。
「ありえない!」という気持ちが漏れだしてしまっているように見えた。
(想いを吐き出したところで何ともならないのだけど)
同族嫌悪
ベテランさんを見て胸がざわついたのは、妙な親近感と嫌悪感ゆえ。
私も「ベキベキ」に呪われている。はっきりとした自覚がある。
同僚、後輩、もしかしたら無意識のうちに先輩までも、兵隊のように使ってしまっていることがある。
「こっちはやっておくから、あっちをお願い!」
自分が思い込んでいる「こうあるベキ」という流れ、形。
そこにてっとり早く近づけるための、雑なコミュニケーション。
文字面だけではわかりにくいが、上のセリフもい言い方ひとつで随分とトゲのある言葉になる。
トゲトゲしい言葉をぶん投げて得られるのは、「こうあるベキ」を達成したというごく僅かな達成感と、怒涛の後悔。
すなわち大赤字である。
(なんであんな言い方をしたんだろう)
(○○さん、嫌な気分になっただろうなあ・・・)
(ムキになっている私は鬼の形相だったろうなあ)
後悔は募るばかりで、「穴があったら入りたい」に、「このまま消えてしまいたい」を付け加えるような心地だ。
こんな気持ちになるなら、衝動的に何か言うのをよせばいいのに。わかっているのに!
ということで、今度は呪いに負けた自分が悔しく、嫌になる。
(書いていて思ったけれど、つくづく自己中心的な思考回路だな・・・)
居酒屋で働くベテランさんも、そんな人なのではないかな。
彼女よりも人生歴の浅い若輩者ながら、つい、想像してしまう。
呪いを解くためのことば「息巻くな」
「ベキベキ」に呪われていることは自覚している。
だからこそ、失敗したときの「またやってしまった」という絶望感は大きい。
「ちゃんと自覚して、失敗してしまったと反省できているだけでもすばらしい」
そんな優しい言葉をかけてくれる人もいる。
しかし、結果は結果。
自分が放った態度・言葉で嫌な思いをした人がいたら、そのときの気分をなかったことにすることはできないのだ。
「わかっているのに治らない」というのは甘えだ。
最近読んだ「調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)」という本に感銘を受けた。
斉須さんが熱を持って紹介していたシェフ、「ベルナールさん」の働く姿。
流れるように、楽しそうに、肩ひじ張らず、調理場に向かうシェフなのだと書かれていた。こんな人でありたいな、と思う描写だった。
その憧れの気持ちをもとに、最近、私は呪われそうになると「息巻くな」と心の中で呟くことにしている。
「息巻く」を辞書で引くと、こんな説明がなされている
息づかいを荒くして怒る。ひどく憤慨する。「絶対に許さないと―・いている」
「ベキベキ」に囚われているときというのは、自分が理想とする世界のなかで、己の正義を貫こうと息巻いているときだ。
理想に反することは悪!と言わんばかりに、悪を排除しようと前のめりになり、目が血走る。
果たして、その正義は本当に「善」なのだろうか?
大袈裟に書いているが、該当するシチュエーションは「私が、あの人に、この書類を今持っていかなくちゃ!」とかそんな程度の話である。
しかし、こんな小さなことひとつひとつにムキになってしまうのが「ベキベキの呪い」だ。
「いま、呪われている!」と気づいたらすぐに、「息巻くな」と心のなかで唱える。
この書類、持って行くのは私じゃなきゃいけないのか?
誰かに託したっていいじゃないか。
持って行くのは本当に今である必要があるか?
別に明日だっていいじゃないか。
カッカしてテンポが速くなっていた呼吸が少しずつ落ち着き、そんな当然のことに気づけたら、大成功。
少しずつ成功体験を増やして、「ベキベキ」と疎遠になりたい。
居酒屋のおばちゃんを反面教師に
話は冒頭の居酒屋に戻る。
肝心の料理はとてもおいしかった。
串焼き2本と新さんまをいただき、お酒を1杯。
さくっと1時間足らずで店を出ることにした。
会計を担当してくれたのは例のベテランさんだった。
彼女が男性客に「新さんま、おいしいですよ」と勧めていたことを思い出し、実際に大変おいしかったので、会計の際、
「さんま、おいしかったです!」
という言葉を添えてみたのだが
「はい、どうも、ありがとうございました」
と、そっけなく釣銭を渡されただけであった。
彼女はあっという間に厨房の方へと向かってしまった。
聞こえなかったのかもしれないし、返事するようなことでもないと判断されたのかもしれない。
次の料理を早く持って行かなきゃいけなかっただろうし、あ、もしかしたら女性客嫌いという可能性もあるか。
なんにせよ、レジ前に残されて少しさみしくなってしまったのだが、
私にもこういう側面があるんだろうな、とも思った。
虚空に漂った「さんま、おいしかったです」が誰かの追加注文を後押しし、大将が喜んでくれたらそれでいいか。
そう思いながら、店を出たのであった。
ベテランさんを反面教師に、「息巻くな」を唱え続けよう。
※反面教師シリーズ
今週のお題「思い出の先生」