言いたいことやまやまです

仕事をやめ、誇りを持って主婦として生きることにした1985年生まれ。金儲け臭ゼロのブログで生きざまを書き綴っています。お金はいつでもほしい。

やままあき

Author:やまま (id:yamama48)

仕事をやめ、誇りを持って主婦として生きている1985年生まれ。我慢しない人生を送ろう!
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今年は目標は立てないことにした

年末年始休暇は、自分自身に向き合う時間だ。

最近は元日から営業している商業施設も数多あるけれど、敢えて出かけずに悶々と考える時間というのは、よいものだし、独身ゆえの特権でもあろう。
己のために時間を独占できる、そんな幸せをかみしめた休暇も、間もなく終了だ。

初詣・お参りのイラスト(お正月)

 

「私はなんでこんなに駄目なんだろう」と落ち込むのが恒例行事

「私(やまま)の書いたものを読みたい」と求められること、これが抱負である。
なにも今年に限ったことではなく、毎年の、もしかしたら一生の、抱負である。
それに現在の自分を照らし合わせて、

「今年も何も成せなかった」
「努力が全然足りていないからだ」
「私は本当に駄目な人間だ」

というくだらない憂鬱状態に陥るのは、年末の恒例行事である。

輝いている人たちの活躍ぶりを目にしては、その憂鬱な感情を昂らせる。
何の努力もしていないくせに、一丁前に嫉妬する。そして卑屈になる。
そして焦って、年始というタイミングに便乗して、適当に目標を立てる。
目標を立てることに躍起になっても、何も変わらないのになあ。

ちなみに昨年は、年始の時点で明文化はしていないが、「とりあえずもっと読まれるブログにしなきゃ」という想いがあり、そのために「まずは銀座グルメ情報を増やそう」なんて、よくわからない方向に目標を立てていた。

ふたを開けてみれば、糖質制限をしたり落語が好きになったりで、ブログの記事内容が銀座グルメに特化しているかといえば、全然そんなことはなかったな、2015年。
ああ、なんて私は駄目な人間なのだろうか(棒読み)。

現実がすべてだ

2015年12月28日。
立川談春さんのエッセイ「赤めだか」がドラマ化された。

談春(二宮和也)が、自分を追い抜いていこうとする弟弟子の志らく(濱田岳)に妬いて、苛立ちを募らせるシーンにシビれた。
師匠の談志(ビートたけし)が談春に「嫉妬とは何か」を語るのだ。

「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。
(略)
本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。
(略)
だがそんなことで状況は何も変わらない。
よく覚えとけ。現実は正解なんだ。
時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。
そして現状を理解、分析してみろ。
そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。
現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。
その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う。」

私は「馬鹿」そのものだなあ、と思った。

ちょうど年末、家の大掃除をしていたら、新卒1年目のときの週報が出てきた。
私のコメント欄は、毎週毎週、まあよくも飽きずにというほど「がんばります」が繰り返されていた。

一方、当時の師は、そんな私に根気強く「考えろ」というアドバイスを施してくれている。

「一生懸命やる。真面目にメモをとる。
そうした行為が、あなたの場合は業務の自分ごと化につながっていない気がします」

新人らしく、議事録作成などをよく行っていたようである。
しかしもれなくと言っていいほど、睡魔に襲われたことを思い出した。
自作の企画書を先輩や取引先に提案しても、質問されるとすぐ、その場しのぎの適当な、中身のない返事をしていたことも。

週報を読みながら、まさに「馬鹿」そのものだった自分の言動が蘇ってくる。消えたい。

「考えるくせをつけてください。
何事にも、なんで?どうして?と思ってみてください」

考えることで、いろいろなことが「自分ごと」になる。
師の助言は、当時の私のハラワタに沁み渡っていたのか、疑わしいところだ。
いままさに、じんわり沁みてくる。
いい師に恵まれたなあ。

私は社会人になるまでずっと「いい子」だった自信がある。
日本の学生生活で「いい子」タグをつけてもらうことは簡単だ。
その場その場のルールを順守すればいい、それだけ。
考えて自論が生まれ、ルールとの矛盾に悩んだりすると、色々なロスが生じる。フラストレーションがたまる。
だから考えず、ルールを受け入れることに集中する。
そうすると、「いい子」ができあがる。
私は、銀河帝国で(ほどほどに)優秀なストームトルーパーになれることだろう。

そうやって、考える力が弱いまま、ここまで来てしまった。もう30だよ。
いつまでも夢に近づけず、努力することもなしに他人にヤキモチをやいてばかり。

・・・ウーン、やっぱり、「現実は正解」だ。

誰も採点してくれないし、道を示してくれることもない

「こんな現実」を変えるために、ここに至っている理由を考えなければ。
・・・と思うのだが、ひどくざっくりとした「私は努力していないからだ」以上の答えが見つからなかった。

そこで、なにかヒントが得られるやもと、帰省中に母に尋ねてみた。

「私は、1年前に比べてどうだろうか。いい感じだろうか。よくなっているだろうか」

注意されること、叱られることは苦手。褒められるのが好きだ。
そんなぬるま湯体質もあって、ポジティブな方向のコメントが引き出せるように聞いてみたのだが、その答えに私はノックアウトされた。

要は「いまいち」という回答だったのである。

さすが肉親、話を聞いていればどれもこれも「おっしゃるとおり」であり、改めて自分が嫌になった。

だが、よく聞いて、馬鹿なりに考えたところ、母が考える「素敵な大人」像は、私が欲する人物像と異なっている、ということに気付いた。
もちろん、母からのさまざまな指摘はいずれも参考になった。
しかしそのすべてを「改善しなければならない」と考えるのは安直すぎる。
それではまた、目の前のルールにすがっているだけになってしまう。

 

生き方に対する一律の評価基準なんて、どこにもない。
誰かの専属の兵隊になりたいなら別だろうが、ひとりの意志ある人間として生きていくならば、自分が進歩できているか否かの通知表は、自分自身で発行するしかない。

それもまた「考える」ことのひとつなのだ。

自分を褒めて、流れていく

いわゆる「褒められて伸びる」ほうだと思う。
逆に注意されるとへこんで、再起にやたら時間がかかってしまう。

ならば・・・進化のために、私が私を褒めよう。

2015年、いくつかPR記事を書かせてもらうことができた。
自分の文章(ブログ)をきっかけに、新たな出会いを生み出すことができた。
好きなことを仕事にしたいと思って、会社でもブログを書かせてもらうことを思いついた。実行に移せた。おもしろいよと言ってもらえた。
一生のなかでまたとない、大事な出会いにも恵まれた。

大きなこと小さなこと、褒めようと思えばいくらだって褒められる。
そのどれもが現実だし、手に入れることができたのは何らかの努力の結果なのだ。

卑屈になる暇があるなら、自信を持てばいい。

今年はもう、目標は立てない。
目標を立てることに躍起になったりしない。
チェックポイントを定めて、そこまで全速力で走る「インターバルトレーニング」で心肺が鍛えられる人もいるけれど、私は違う。
目標を立てることで、「できなかったから努力が足りていない」「こんなことも実現できないなんて、私は本当に駄目な奴だ」というネガティブな感情が伴うことが容易に想像できる。
ところどころ寄り道して、ご褒美のうまい棒を自分に買ってあげたりして、ずーっとだらだら走り続けているほうが、マッチョになれそうだ。
これまさに、「馬にニンジン」トレーニング。


以上が、考える力のないアタマで考えた結果だ。
うまくいかなければ、またその現実に至った理由を考えて、処理すればいい。
気づくきっかけをくれた母や、過去の師に、深く感謝したい。

・・・なんていうことを、元日のドトールで考えました(出かけてるんじゃん!)。

今年も、よろしくお願いいたします。

赤めだか (扶桑社文庫)

赤めだか (扶桑社文庫)