親戚がいる九州に行ってきました。従妹の家で数日間お世話になったのですが、「じゃあ、留守番よろしくね!」と言い残し、従妹一家はそれぞれに出かけていった日がありました。
周辺の土地勘もないので、本当に留守番。放置真っ只中。
好きなように本を読み、テレビを見て、昼寝して、このブログを書いて、おならして、おやつを食べて、快適で贅沢な時間でした。
客人扱いをされていない。変な気を遣われていない。それがとてもうれしかったです。
「気遣いの塩梅」って難しい
気遣いとは「相手をよい心地にすること」だと考えています。私は、不得手な自覚があります…。「他人が喜ぶかどうかなんて、私はその人じゃないからワカラン」と匙を投げがちです。
とはいえ社会のなかに身を置いていれば、さらには企業に就職しようものなら、否が応でもコミュニケーションの機会が増えていきます。タテにヨコに、さまざまな人間関係が構築されていきます。自分が気を遣いたいかどうかなど関係なしに、立場上、「気を遣わねばならない」シーンにも多々遭遇します。
「世間一般ではこれが”気遣い”だということになっている」という、なんとなーくのイメージに則って行動するのですが、「相手が心地よくなるかどうか」という本質に基づいていないから、塩梅がわからないのです。
宴席など最たるもの。景観のよい窓際席に通されようものなら、席順からわからなくなってきます。
「奥の席についていただくべきだが、この景観こそがオモテナシだよな、となると末席にご案内?うーんそれもちょっと」
そんなことをグルグル考えているうちにギブアップとなり、「あのう、景色を見るのは好きですか」なんてトンチンカンな質問をして「え?あ、ええ、まあ」と言った具合で話を合わせるという「逆気遣い」を食らってしまう次第です。
お酌もどこまでが気遣いなのかわかりません。「ここからは手酌でいいですよ」なんて柔和な表情で言ってくれるけれどそれは真実なのか否か。実は「いえいえ、注がせてください」と言われるの待ちなんじゃないか?いや、でも私だったら絶対手酌で自分のペースで飲みたいし、うーん。
お料理の取り分けなんて地獄です。等分できない。なのでこればかりはよほどの偉い人でもいない限り、大きな声で「ここは直箸で好きなものを好きなだけ食べる方式で!」と宣言してしまいます。でも「本当は取り分けたほうがいいんだろうな」と罪悪感も抱いているんです。小心者。
そうそう、大皿に残った「みんなの遠慮のかたまり」的なお残しも、かっさらって食べるべきか否か悩みます。「卑しい人だ」と思われるのは恥ずかしいけれど、お残しは見ていて切ない。はたまた、私以外にもこのお残しを食べたいと思っている人がいるかもしれない。となるとまだ大皿のなかのお残しに着手するのはちょっと早いよな…とか、キリがありません。
あと、そろそろお酒はもう要らないなーと思い始めたタイミングで「おまえ、もうちょっと飲むか」と言われ、付き合いが悪いと思われないようYESと返せば、「おっ、遠慮がないなあ、ハハハ」。 …悪 か っ た ね !
気遣い上手はモテる
どこまでが気遣いで、どこからが無礼なのかがワカラン。相手のパーソナリティを見据えて調節することこそが、いちばんの気遣いだと思います。他人を想う気持ちがなければ、できないことですね。
「気遣い上手はモテる」。男女関係のみならず、友人関係においても、仕事関係においても、です。相手に「気を遣ってくれて申し訳ないな」と思わせることなく、スマートな気遣いができる人を、本当に尊敬します。
私もここぞというときはがんばってみるのですが、前述のとおり塩梅がわからないし、ボロがでます。飲み会冒頭、目を皿のようにして、お酒のおかわりの追加発注、取り皿チェンジ、食べ終えたお皿の撤収等々しゃかりきになるのですが、途中で疲れてギブアップ。「やままさん、次の飲み物どうしますか」なんてお気遣いの声をかけられるという…すいません…。
行動のベースになっているのが、「相手を想う」ことではなく、「自分をよく見せたい」という見栄っ張りな感情だからなんだろうな。
ここにもっと危機感をもたねばならないと思う。
気遣いができる人、すなわち相手を想える人のことは、相手もその人のことを想ってくれるはず。相思相愛。縁が縁を呼び、いい仕事も舞い込んでくることでしょう。
「情けは人のためならず」とはよく言ったものです。「気遣い下手な自分」に焦燥感を抱いていない自分自身のことを、残念に思います。どうしたら、ギアチェンジできるのかな…。
あっ、もしも万が一私に気を遣ってくれるという方がいらっしゃるならば、「ビールは手酌」「料理は直箸で好きなだけ」スタイルで臨んでいただければと存じます。