夢の中できれいなお姉さんに「気が利かない」と言われてしまいました。
黄色いタオルで車を磨くシーンでした。私の拭き方が甘かったのかなあ。
最近、ジャンプマンガの『呪術廻戦』をアニメで勉強しました。
主人公の子は1話にして化け物の指を食う羽目になり(オエー)、そのせいで、自分の中に化け物を飼うことになっていました。気の毒なことです。
私にとっての「化け物の指」は、「気が利かない」という概念!
呪術廻戦の主人公は、身体の中で化け物(指の主)と折り合いをつけながらうまくやっているようでした。
私の場合、基本的に「気が利かない」という化け物にのっとられています。
今朝のような夢をみたのも、そいつが悪さをしたせいでしょう。朝からうんざりだよ!
気が利かない私の、気の利かせ方
しっかり者の母と、チャランポランな父の間に生まれた子が私です。
父は並大抵のチャランポランではないので、いくら母が薄めてくれているとはいえ、私の中にあるチャランポランの素質はかなりのもの。
それは「気が利かない」という形で表出しました。
たとえばトイレに入って、トイレットペーパーが自分の回でカラになったとします。
ふつう、ペーパーを変えておくか、補充用の新しいものをわかりやすいところに出しておくか、しますよね?
素の私であれば、たぶん、なにもせずにトイレから出てくると思います。
とにかく視野が狭い。
目の前にあるものしか見えていないところがあります。
母はそんな私をしっかり矯正してくれました。
だから今は、
トイレットペーパーはもちろん変えるし、
食事を終えたら食器を下げたり洗ったりするのは当たり前だし、
出かける際に玄関にごみ袋が置いてあれば集積所に出すし、
使っているハンドソープの量が少なくなっているのを感じれば補充します。
リビングルームから自室に戻る際、洗濯済みの自分の衣類を持っていかないなんてダメなんです!
そもそも、室内に取り込んだ衣類をたたむところから率先して手伝うべきです。
多くの人にとって、上記のいずれも「できて当たり前」のことばかりでしょうが、私にとってこれらは「努力の上に成り立っていること」でして……本来的には、できません……。
私は指摘を受けるたびに「想定パターン」をひとつずつインプットしていったのであって、視野自体は狭いまま。
現場に直面したら、脳内の「気が利く行動パターンリスト」を瞬時に検索し、適合する行動をとっているのです。
上のトイレットペーパーなどでいえば、該当シーンに遭遇すると勝手に、母の顔や言葉が脳裏をよぎります。
まだ見ぬ誰かの「こんなこともできないなんて、気が利かない」という呆れ顔もよぎります。
それが嫌で、そういう顔をさせてしまう私は価値がないのだと思いたくなくて、「最適とされる行動」をとっています。
「そうしなきゃいけないから」そうしているだけ。
本当にその行動が必要なのかどうか、もしかしたら腑に落ちていないかもしれません。
それでも母が根気強く教え込んでくれたおかげで、他人からはむしろ「気が利く人」と思われる機会もあったと思います。
社会人になって以降もなんとか生き延びられたのはそのおかげ。
でも、その「気が利く人」像はただのハリボテです。
なにせインプットされていないものは太刀打ちできないので、私を「気が利く」認定してなにかを任せてくれても、たやすくその期待を裏切ってしまうからです。
たくさん、がっかりさせてきました。
▼気が利かない自分を、「こうするべき」「こうせねば」で縛ってきました
気が利かない私だからこそ「気が利かない他人」がムカつく
真の「気が利く人」から私の言動を注意される際、「想像したらわかることじゃない!」と言われたこともあります。
この表現は、堪えるんですよ……。
気が利く人の視野の広さに圧倒されると同時に、視野が狭い自分に愕然とします。
このときのがっかり感といったら、ないんです。いまでも毎度、感じます。
「想像すればわかる」ってあなたは言うけれど、「すみません、わかんないんです(;_;)」がこちらの本音!
想像できていたらミスしていないはずだということも、想像しておくれよ!!!
「◯◯なときは□□」「△△のときは◇◇」と逐一インプットしないと実行できないんです。
とにかくがっかりされること、呆れられることが怖い。無価値認定されるのと同じことです。
それを避けるために、物心ついたころから「インプット癖」がついてしまいました。
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私が「気が利く行動」を取っているときは、基本的に「自分に鞭を打っているとき」です。
生活しながらつねに「気が利くレーダー」を張り巡らせている感覚。
インプットした情報に適合する事案を発見すると、「気が利くとされている行動」を取っています。もはや脊髄反射の領域です。
……とても疲れます。いつだって「気が利く他人」の目が気になります。
サバンナのシマウマのような感覚かもしれません。ボーッとしていたら襲われます。シマウマに「一緒にすんなよ」って言われるかもだけど……。
ふと、
私が自己受容できず、他人の評価で自分の価値を測ってしまうのは、「気が利かない」と思われていないかどうかをいつも気にしているからかもしれない。
……と、思いました。
だって「気が利かない」と思われることは、私にとって、「おまえは役立たず」という焼印を額に押されるようなものなのです。
「気が利く」はできると褒められる加点評価項目ではなく、できなかったらダメという減点評価項目。
だから私は、気が利かないのに愛されている人たちが信じられないし、許せなくなってしまいます。
天然キャラのかわいい子って苦手なんですが、それはひたすらに「ずるい」という想いゆえです。
私は、気が利かなければ捨てられるのに! なんであんたはへらへら生きているんだ! 許すまじ! 同じ苦しみを味わうべし!
……と、瞬間的に思ってしまう。
「気が利かない人」にいちばん敵意を向けているのは、気が利かない私かもしれません。
「気が利かないバカ」に戻ってみたい
ビジネス書のコーナーを覗くと、「気が利く人になるには」「気配りできる人は愛される」なんてタイトルの本がたくさんあります。
たとえばベストセラー著者様の中谷彰宏さんの本に、こんなものを見つけました。
商品紹介文はこうです。
生まれつき気遣いのできる人とできない人とがいるのではありません。
気遣いは、勉強×体験です。
勉強をしたら、実際に自分で試してみることです。
体験とは、成功ではなくて失敗です。
失敗した時に「コツはなんだろう」と、もう1回考えます。
勉強と体験を日常の中で何回転もさせた人が、ココ一番でも気遣いができるようになります。
なんかもう、これを読んでいるだけで疲れました……。
真の気遣いができる人って、ただ視野が広いだけではないのですね。こんなにがんばっていたとは……。
私は、これまでの「”こういうときはこうするべきパターン”のインプット」でギブアップです。これ以上がんばれません。
こんなにがんばんなきゃ気が利く人なれず、好かれる人間になれないなら、もう、いろんな人に好かれなくてもいいや、と思っている自分がいます。
もう、「気が利かないやつは捨てられる」と怯えることをやめたい。
もう、「気が利かない自分で大丈夫」と思えるようになりたい。
もう、「気が利かない自分を蔑むやつは、こっちから離れていってやる」くらいに思いたい。
気が利かないバカな私だと、人間関係はどのくらい縮小してしまうんだろうなあ。
こんなふうに強く思いつつも、36年間調教しつづけた心身は、そう簡単に「解放されたい」という私の願いを聞き入れてはくれないのでした。
……って諦めていると一生変われないので、エイヤでやってみるしかないですね。
まずは「義務感での贈り物のお返し」とか「義務感での手土産」あたりからやめてみたいです。
「こないだ◯◯をしてあげたのに、気が利かないわね」とか、
「手ぶらで来るだなんて厚かましい」などと思う人からは距離を置きたい。
自分も含め、敵は昭和世代な気がするなあ。
▼『妖怪べきねば』の「こういうときは、ふつう◯◯すべき」という章でも、派生した話題を書いています!