言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

育児日誌ブログ「母になっても言いたいことやまやまです」を毎週月曜日に更新中!

「言わずともやっといて」は乱暴

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こんばんは、気が利かない時間です。

今朝、会社でお手洗いに行ったのです。すると、洗面台の脇にあるはずのBOXティッシュがない。おそらく私の前に使っていた方のところで残ゼロになり、彼女が箱をたたんで捨ててくれたのでしょう。弊社のお手洗いはストック置き場がなく、このような場合は別の場所にあるティッシュ在庫を持ってこなければなりません。補充しておかなきゃなあ、と思いながらトイレを出ると、出てすぐのところにある戸棚に新しいBOXティッシュ(しかも紙をシュッと抜く部分をミシン目に沿って切り抜き、新しい紙を少し出しておいてくれている)が置かれていました。

私は感動しました。大喜びでその「準備万端ティッシュ」を握り、洗面台の脇にセッティングしたのです。非常に気分が高揚しました。セットしたのち再びトイレを出ると、私の直前にトイレを使っていた後輩が寄ってきて「この棚にティッシュありませんでした?」と。あなただったか……!私は再び感動しました。「そのバトン、受け取らせていただきましたとも!!!」

私は楽器など演奏できませんから、即興演奏でピタッと決まるときの快感を想像することはできないのですが、きっと今朝のことはそれに類似するものであったと思います。計画していなかったのに計画通り。なんと気持ちが良いのでしょうか。

世の奥様方(ないしはご主人方)は、この快感を期待しては裏切られの繰り返しです。可燃ごみの日にこれ見よがしに玄関先にゴミ袋を置いておいても、ご主人は何も見えていないかのようにゴミ袋に目もくれることなく出社する。畳んだタオルを洗面所に置いておいても、そのタオルがしまわれることはありません。意地になって、畳んだタオルを積み重ねて摩天楼のようなタオルタワーを作ったりして……

最終的には「どうしてしまっておいてくれないのよ!」「察してよ!」「ホント、気が利かないわねえ!」となり、「その言い方はないだろ!」です。

私は長いこと、こういうところで気が利かないのは「ダメなやつ」であると信じてきました。私自身、気が利かない族です。幾度も幾度も幾度も「気が利かない」と言われ続けて、本来であれば私の視界には入っていないはずのゴミ袋を!タオルタワーを!どうにかして可視化できるようになりました。しかしその都度、超サイヤ人になるときのような「気合」が多少なりとも必要です。それは地味に疲れること。だからこそ、気が利かない相手を目の当たりにすると怒りが湧きました。こっちはこんなに神経尖らせてがんばっているのに!

今朝の一件は、それが報われる稀有なひとときでした。

私は彼女のことを「こいつ……できる!」と思いました。思わずにいられませんでした。そう、「気が利く」は「できる」の代名詞なのです。

しかし、本当にそうなのか?「気が利かない」は「無能」で「駄目」の代名詞なのか?

「気が利く」というのはいいことでも悪いことでもなく、「言語」のようなものだと思うのです。異国の地で日本語を話す人と出会うと心ときめくのと同じ。あっ、おまえも気が利く語話せるんだ!という具合です。今朝の「BOXティッシュの奇跡」がまさにそう。

「気が利かない語」を話す人に「気が利く語」で語りかけても駄目です。「可燃ごみの日に玄関前にゴミ袋を置いておく」は「気が利く語」。だから、ゴミ袋を無視して出社するご主人を一方的に咎めるのは自分勝手だと思います。タイに行って日本語で話し、「全然わかってくれない!」と憤慨しているようなものですから(そりゃ、伝わるタイ人もいますけれど)。理解を勝手に期待して、勝手に「裏切られた!」だなんて被害妄想、わがままもいいところです。

「今日ゴミの日だから玄関のゴミ出しておいて」。この一言があればいい。私の知る限りでは、「気が利かない語」を話す人(実父がそうです)はこういうお願いにブーブー言うことがありません。いいよ!と快く引き受けてくれます。

しかし気が利く族にはどこかで「自分は気が利く、できる奴」という自負があり、たった一言、上記のことばを使えばいいだけなのに「言わなきゃわからないなんて、ほんと困っちゃう」などと仰せになる。あなたのほうが困りものです!

(気がきく語、きかない語、という表現のせいか嫌味を書いているように見えなくもありませんね…でも、そんなつもりは毛頭なく、むしろ”気が利く族”へのモヤッとした気持ちを書いているつもりです)

この記事は私自身への戒め、反省文でもあります。気が利かない族出身であることを忘れ、自分が努力して気が利く族になりつつあることを理由に「だからあんたも気を利かせられるようがんばんなさいよ」というムードを出してしまう。

気が利くのはできるやつ、気が利かないのはダメなやつ、そんな価値基準を捨てたいのです。