こんばんは、ええいこのサディストめ!の時間です。
ベストセラー『嫌われる勇気』、青年と哲人のやりとりを通してアドラー心理学を学ぶという名著ですが、とにかく青年が面倒くさくて、上の「ええい」シリーズを始めとする名言もとい迷言がわんさとあります。緑色の蛍光ペンを引いていったらすごいことになってしまったので、いつかまとめて記事にしたいと思います。
それはさておき、アドラー心理学で説かれている「共同体感覚」の話です。アドラーに限らず、いろいろな場面で「まず自分から、他人に与えることをはじめよう」という話を見聞きします。
実際そのとおりだと思います。自分だけが得をするなんておかしなこと。なにか得たいものがあるなら、自ら与える。与えることによって何かが得られる。
しかしそれは大変に難しいことでもあるのです。少なくとも私にとっては。
容易にできないのは「自分だけが一方的に与えるばかりで、搾取されることになりやしないか」という不安と恐れゆえです。
「与える」と、損しないか?
私はたいへん自己中心的な性格をしていると思います。「与える」ことは不得手です。なのに落ち込んで心理学やカウンセリング関連の本を読んでいると、高頻度で「自ら与えよう」という話にぶちあたります。
落ち込んでいて、要は「かまってちゃん」の状態、「与えて欲しい」状態のときに読んでいますから、とても気が滅入ります。そして快く「与える」行為がとれない自分が嫌になる。
先週は心身の調子が悪く、まさにそういう状態に陥っていました。
それで愚痴ツイートをしましたら、としぞう( id:gerge0725 )さんがこんなアドバイスをくださいました。
ひとりに対して与える量を少なくして対象を広げるのが良いと思います。
— としぞう@弱小役員&はてなブロガー (@Gerge0725) July 27, 2019
対象が少ないと期待値が上がりますが、対象の人数が多いと、相手が裏切っても気にならなくなりますよ❗️
そうです。「与えよう」って意識すると特定の人だけになってしまうので、多数の人をちょっとずつ手助けするのが良いと思います。
— としぞう@弱小役員&はてなブロガー (@Gerge0725) July 28, 2019
ブログもそういうものだと思いますよ❗️
「与える」という言葉をえらく重いものにしていたことに気付かされました。
(すごく救われました!としぞうさん、ありがとうございました)
他の書籍などでも、「”与える”とは”笑顔で過ごす”程度のことでも十分だ」という話を拝読していたのですが、仏頂面人生を送っている身にはなかなかハードルの高いこと。やっぱり与えるって大変なことだよなという解釈になっていたのですが、としぞうさんの「ブログもそういうもの」との言葉で、やっとハッと気づけたのです。
「奪わない」に気をつける。「与える」はその後
あるときからこのブログは「何を書いてもいいけれど、終わりだけはちょっと前向きにする」ことだけ気をつけています。
おこがましいながらも、これも一種の「与える」行為なのかなと思えてきました。だとすれば、あまり身構えなくてもよさそうです。でもあまりにも規模が小さい!
……そこで思ったのです。
私は「与える」を意識するレベルに至っていない。
じゃあせめて、その前段階として、「搾取しない」ことを意識していこう!
要は「相手を喜ばせない」までも、「不快にさせない」ということです。
ブログで有益な情報を書くのが「与える」だとしたら、ネガティブなラストにはしないというのが「搾取しない」にあたります。
気をつけてみると、私には大変に難しいことでした。
すぐイライラしてしまうし、それが顔に出る。嫌味も言います。これら「搾取行為」をやめるというのは大変です。いかに習慣化されてしまっているかに気付かされます。努力はしていますが「また失敗した…」ということばかり。
でもゆくゆくはレベルを上げて、「与える」を意識できるようになりたいものです。意識するところからスタート。
共同体意識、ひとつ意識という概念
共同体意識、ひとつ意識については下記の「グッドバイブス」「アミ」などからも学びました。
- 作者: エンリケ・バリオス,さくらももこ,石原彰二
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 2005/08/05
- メディア: 文庫
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マシュマロはじめました
それでさっそく「与えてもらおう」という話に移りますが(!)、「マシュマロ」をいまさらながら始めてみました!私も与えていかねば。
(※マシュマロとは何か?は コチラから)