こんばんは、読書の時間です。
自分の考え方の視野狭窄ぶりが悩みです。
世の中にはいろいろな物の見方がある。「自分の考えはそのうちのひとつにすぎない」ということが体感できれば、誰かに考えを否定されても、苛立ったり絶望したりすることはなくなるはずです。
……ということで、手軽に「いろいろな考え方」があることを知るための手段として、読書に励もうとしています。
読書モチベーションを上げるため、読書術の本を2冊続けて拝読しました。
1冊目が印南敦史さんの『遅読家のための読書術』。「音楽を聴くように、身構えずに読書を楽しもう」というメッセージのおかげで、気楽に本を手に取れるようになりました。
▼読書メモはこちら
2冊目は、小飼弾さんの『本を遊ぶ 働くほど負ける時代の読書術』です。
印南さんの本が終始穏やかに「気軽に楽しもう!」と励ましてくださるようなものだとすれば、小飼さんのこちらの本は「本を読まないやつはバカ」とグサグサ刺されて耳が痛くなるようなものでした。
とはいえ、
今の時点で、「本を読むよりネットが好き」、だとか、「本を読むのは正直面倒」という自分を恥じる必要はありません。そういう訓練を積んでこなかっただけですから。
とのメッセージも。読書家である小飼さんの「読書に対する考え方」を吸収し、「訓練」に励みたいところです。
拝読している最中、読書が苦手な身としては辛い気持ちになる箇所も多々ありましたが、同時に「こんなふうに自分の見解を述べられる人間になりたい」という憧れの気持ちが湧きました。
- 読書は視野を広げる
- 「損得」で読書をしない
- 「本の読み方」を改める
- いろんな本を読む
- こんな本を読んでみたくなった
- アウトプットする
- 本は自分の教養の程度をうつす鏡
- 炸裂する小飼さんイズムもおもしろい
- 終わりに
読書は視野を広げる
書籍のなかで心に残ったポイントでもあるのが、小飼さんのご自宅が家事で全焼してしまったときのエピソード。膨大な蔵書が灰と化してしまったなか、意外にも悲観することなく淡々といろいろなことを済ませていったそうです。
今にして思えば、そのころから「起こってしまったものは仕方がない」という発想法になっていたのでしょう。
◆
本を読んでいれば、この程度のトラブルは世界中でいくらでも起きていて、何も自分ひとりが悲劇の主人公ではないことくらい、すぐにわかるようになります。これも読書の効用の1つかもしれません。
これこそまさに、私が読書によってたどり着きたい境地!
時間やお金をかけずに数多の世界を知ることができるのが、読書です。
小飼さんはこうも書かれています。
「本とは他人の考えを読むものだ」と思っている人が大半でしょう。でも実は本を読むことで何が読めるかといえば、自分自身なのです。
◆
読書という行為は、自分が何をわかりたいと思っているかを知る過程の1つです。自分が何を知っていて、何を知らなかったのか。これから何を知りたいと思っているのか。読書という行為に照らしてみると、それが見えてくる。
印南さんの本でも「目的を持って読書をするとよい」というアドバイスがありましたが、やはり漠然と読むだけではもったいないですね。
読みながら「自分はなぜこの本を手にとっているのか」を自覚するように努めると、自分の成長に気づくという面白さも味わえそうです。
「損得」で読書をしない
読書術本を立て続けに読み、「読書で成長する自分」に期待しテンションが高まっているのですが、期待の寄せ方は誤りたくないところ。
読書も(”ガチャ”と)同じで、はずれても落ち込まないこと。その本に1ページ、1行でも印象的な部分があればめっけもんだ、くらいに思っていていいと思います。
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読書という行為に損得の概念を持ち込む人は、実はあまり得をしていません。僕はそういう人には、「テレビの代わりだと思って、気楽に本を読め」といっています。
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どんなものでも、毒にも薬にもならないクソコンテンツはあります。「絶対に面白い本しか読まない」と決めて、少しでも面白くないと損をした気分になるというのも、本に「娯楽性」というある種の実利を求めているのと同じ。僕には狭量なことのように思えます。
とかく今の社会は「即効性」を求めすぎている気がします。余白の時間を楽しむだけの余裕や視野が足りていないとでもいいましょうか。
「効か」なければレビュー欄でフルボッコなんてこともしばしばです。百発百中でなければならないなんて、なんと生きづらい世の中か。
本当に優れた読み手は、どんな取るに足りない本からでも何かを得ます。だから本当は読書をすることで損をするということは、万に一つもありえない。読書とはどう転んでも必ず結果がプラスになる行為だといえます。
「どんな読書からも何かを得られる自分」こそが「読書で成長した自分」なのだと思います。「クソ本」とレビューされているものからでも、何かを得られる読書家になりたい。そのころには考え方の視野も多少は広がっているといいな。
「本の読み方」を改める
印南さんの本にもありましたが、「はじめから終わりまで、きっちりと読む」ことだけを「読書」と呼ぶわけではありません。小飼さんも「好きなところから好きなように読んでもかまわない」と仰っています。読書家の方と、「読書をしなければならないと思っている人」の大きな違いだと思います。
辞書や百科事典で、好きなところから好きなように読む練習をするといいとの提案も。「百科事典は見ているだけで役に立つ」……読書経験による”即効性”を求めている人にもピッタリな修行法です。
また、それ以上に「本の読み方」として大事なポイントだと書かれていたのは「本に読まれないこと」でした。要点を列記します。
- 読書は受け身の行為ではない
- 自分が主体であるという強い意識のもと、著者と会話するように読む
- 内容を無条件に受け入れるだけでは「知識の伝達」
- 「批判しながら読む」ことで、ものごとをゼロから考えられる自分になる
……まだまだ、私の読書は「文字を追う」ので精一杯です。上記の読み方ができるようになりたい。まずは自己啓発本のムードに流されないことからスタートだ(笑)
いろんな本を読む
特定の作家さんや特定のジャンルだけをオタク的に読むのでは、結局考え方が凝り固まってしまいます。それを避けるためのアイデアとして、本屋さんに行くことが提唱されていました。
面白かったのは、本の購入方法のアイデア。
「(書店で)たとえば今日は3万円以上、本を買う」と決めて、それを達成するまでは帰らないと決める。
なぜそうすることが大事かというと、人間は使ったお金のもとは取ろうとするものだからです。たとえば3万円となれば、これは決して安い金額ではありません。それをムダにするわけにはいかない。そう思えば、買ってきた本は必ず読むようになります。
そうして幅広く本を読んでいると、こんなおもしろい体験もできるそう。
本を読んでいて、「この面白さは、自分しかわからないだろうな」とニヤリとする瞬間があります。それは、他の本を読んで得た知識が、まったく別の本を読んだことで深まっていく瞬間です。
まずは1万円分、本を買ってみようかな……
こんな本を読んでみたくなった
こちらの本を読んでいるなかで、前述の「百科事典」に加えて「伝記」を読みたくなりました。例に挙げられていたのは、渡辺淳一さんが野口英世の生涯を描いた『遠き落日』という作品。
偉人としてではなく、いち人間としての彼の悲しい「無駄な努力」がいろいろと書かれているそうで、
「無意味な人生」というものは存在しないと思える。そう思えば自己啓発書を読むより伝記を読んだほうが、よほど元気が出るのではないでしょうか。
との指摘に心打たれてしまいました。確かにそうかも、と。伝記はほとんど読んでこなかったジャンルなので、ちょっとわくわくしています。
アウトプットする
印南さんも「読書メモ」で読書体験を身に染み込ませる大切さを説いていらっしゃいましたが、小飼さんもアウトプットの重要性を語っています。
何のために本を読むかといえば、究極の目的は自分でしっかりとものを考えられるようになるためですが、「自分で何かを発言できるようになる」ということもあります。
◆
「こんな本を読んだ」と発信することは、自分の意見をいうためのいいトレーニングになるのです。
試行錯誤しながら、いまこうして読書メモ記事を書いているわけですが、小飼さんからのアドバイスは「フォーマット化」。そして、感想なんていらないとだと。
フォーマット化すると没個性記事になってしまうのでは?と不安になる方もおられましょうが、
個性とは、「非個性的な代わりに、ものすごく役に立つこと」を真似して真似して真似して、それでもどうしても残ってしまう癖のことです。
とのこと。そして
その本が面白いかどうか判断するのはあなたではなく、ブログなりSNSの読者ですから、淡々と内容を要約すればいい。第一、面白さを伝えようというのは、ものすごく 傲慢なことです。
と、ピシャリ……書き方はどうあれ、まずは「アウトプットにチャレンジする」が第一歩だと思うので、マイペースに今後も読書記事を書いていこうと思います。
本は自分の教養の程度をうつす鏡
これなら読めるだろうと思って選んだ本を開いて、文字を目で追っても著者が何をいっているのかわからないということはよくあります。そのとき自分はどういう状態なのかというと、「自分が何をわかっていないかということすら、わかっていない」ということ。
読み解くには知識も必要でしょうが、それ以上に大事なのは「自分で自分の脳みそを耕す習慣を身につけること」。
本と読者は、まさに教師と生徒の関係に似ています。しかし本は話をしてくれないので、自分の中に教師をつくらなければいけない。(中略)本そのものは教師ではありません。
◆
本を読んで自分に教えている自分と、この本から教わっている自分は、別の人格だと思えばいい。
本を通じて、著者と自分、本の内容を翻訳する自分と教わる自分の対話が繰り広げられることが「脳みそを耕す」ことにつながり、「教養を深める」ことになるのです。
「「教養」はcultureであって、knowledge(知識)ではない」という一文も印象的でした。知っていればいい、というものではないのです。
炸裂する小飼さんイズムもおもしろい
ところどころで表出する「小飼さんらしさ」が刺激的で、耳に激痛を走らせながらも楽しく拝読しました。
たとえば……
自己啓発本が詰まっているということは、その人が本に「助けてください」とすがっている証拠です。自分の頭で考えることを放棄してしまっている。
◆
心の隙間を無意味な読書で埋めるような行為を、僕はこの本の読者にはしてほしくありません。たとえば「あなたは悪くない」「そのままのあなたがステキ」というような安っぽい自己啓発本。
某自己啓発本シリーズの愛読者としてはたまりませんでした(大笑い)。
「テレビを毎日3時間見ている人たちは、せっかく1日3時間もある隙間を一生懸命ゴミで埋めているようなものですから、それよりは数倍はまし。」とのことで、テレビっ子の私は傷に塩をたっぷり塗り込まれることになりました。痛い……
余暇活動にも手厳しいコメントがありました。
若い男女が海に行っているとき、自分だけ1人で本を読んでいる、などと卑屈になる必要はありません。僕なら「また海に行ってきたの? また一歩皮膚がんに近づいたね」とからかってやるところです。
そこまで言わんでも!読書が不得手な身からすれば、ひとりモクモクと読書ができる習慣を身に着けているのが、羨ましくてなりませんが。
そんな辛辣なメッセージの一方で
ほとんど読書の習慣がない人であれば、たとえハウツー本でもタレント本でも1冊読み通すことができたというだけで自分をほめていいと僕は思います。
というあたたかい一文も発見しましたので、これを励みに、ひきつづき読書の習慣化に努める所存です。
終わりに
巻末には小飼さんのおすすめ本リストがあったり、読書習慣によって身につけた情報収集力にもとづくさまざまな情報(ブロックチェーンや日本の財政などなど)もあって、読み終えたとき少し頭が良くなったような心地がしました。
でも、こんな感想を書いている時点でバカだと思われそうだ……きっとお会いする機会なんてないんだと思いますが、こういう「頭の良さ」「キレ者感」が滲み出ている方の発言等に触れると、とたんに卑屈な気持ちになってしまう私であります。
しかしこれもまた、考え方の視野が狭いせい。「そういう人もいるんだー」と受け流せる境地に至るまで、いろんな本を幅広く読んでいきたいです。