こんばんは、何を書こうかなの時間です。
書こうかなと思っていた最近の食ネタや、まだ書ききれていないタイの想い出など、控え選手は数多抱えているのですが、どうにもそれらを書くモードになれなくて、このままだとブログ更新をせぬまま眠ってしまいそうです。
そういうときはとりあえず書き始めるに限ります。
さくらももこエッセイ 初期3部作がKindle化していた
さくらももこさんのエッセイ、初期3部作(もも・さる・たい)がKindle化していたので早速買い求めました。久々に読んでいますが、情報の衣の付け方が独特でおもしろい。
さくら先生のエッセイが好きで、その影響で小学生のころからエッセイストに憧れているんだなどと話すと、「どういうところが好きなのか」と問われます。そのたびに、実は「好き」という表現は誤りだったのだと反省していました。というのも、何度も読み返すようなことはしていないからです。全部実家にある時点で、愛に欠けていると言える。そんなに好きならひとり暮らしの家にも持ち込むに違いありません。文庫版を書い直したっていい。でもそんなことは一切していないのです。
ゆえに、「なぜ好きなのか」という問いには「いや、ほら、おもしろいじゃん」みたいな軽い回答でしのいでいました。
いままさに「たいのおかしら」を読んでいるところで、やっとどういうところが好きなのかを思い出しつつあります。とにかく普通なところが好きなのです。等身大の20代後半の女性。奇をてらっていない、「○○をやってみました」みたいなネタに走っていない、ごく普通の話なのがよい。
「ムダ」はいいものだ
グッピーを飼った話を読み終えたところですが、冒頭は「グッピーという陽気な名前の魚がいる。」で始まりました。こういうところが好きなのです。「陽気」の2文字にグッと来ます。
お姉さんが、1匹10円だったからといって購入してきたのが飼育のきっかけだったそうですが、ただそれだけの状況説明にも「一匹十円の大安売りなら三十匹買ってくればよいものを、どこかケチなところがある女なのだ。」という、言うなれば「いらない紹介文」が入るのです。これがあるから、普通のことが普通じゃなくなり、コンテンツになる。
「余計なもの」というのは、なくてはならないもの”ではない”からこそ、愛すべきものになるのだ……。
大好きな、玉川太福さんの新作浪曲を思い出しました。ただ、会社員同士がお弁当のおかず交換をするだけ。銭湯に行くだけ。それにたくさんの「余計なもの」がついて、本当に愛おしい浪曲と化すのです。
私は「余計なもの」が好きなんだなあ……とじわり実感しました。
ちなみに、さくら先生のエッセイでとても好きなのは結婚相手の家に行った際に「トニー谷」のことを話そうとしていたら、座っていたロッキングチェアがひっくり返ってしまい、その衝撃によって「タニートニ」と発言してしまった、というくだりです。『もものかんづめ』に収録されております。
こういう、「笑える」とも違う、「ほっこりする」とも違う、愛おしくて微笑んでしまうような「余計なもの」が書けるようになりたいと、私は小学生のころからずっと思い続けているんだと気付かされました。Kindleだからこれからはいつでも読み返せるぞ。