昨年末に公開された映画『さようなら』は、劇作家・平田オリザさんと、ロボット研究の第一人者である石黒浩教授が手掛けた舞台を映像化した作品だ。
石黒教授といえば、あの「マツコロイド」の生みの親。
人間とアンドロイドが共演する斬新な演劇プロジェクトである。
映画で描かれるのは、アンドロイドとの生活がごく当たり前の、近未来の日本。
原発の爆発により放射能汚染が広がり、日本国民は世界各国に避難していた。
主人公は、避難優先順位下位の外国人難民女性、ターニャ(ブライアリー・ロング)。
病弱な彼女を幼いころからサポートするアンドロイドのレオナ(ジェミノイドF)、微妙な恋愛関係にある敏志(新井浩文)、近所に住む友人の佐野さん(村田牧子)らと過ごす退廃的な日々が、淡々と描かれていく。
作品のテーマは「人とは何か」
2月の半ばまで、渋谷アップリンクで上映されていた本作。
私が鑑賞した回は、上映後に監督の深田晃司さんによるトークショーも開催された。
深田監督は、CGを用いず、人間とアンドロイドを対等な存在として撮影することで、両社の対比を通じ「人とは何か」「死とは何か」を描きたかったという。
死に目を向ける機会が減っているいま、そこから目をそらすのではなく、敢えて「死について考える時間が大事なのではないか」との想いで制作されたそうだ。
その象徴とも言えるのが、主人公・ターニャの死のシーン。
アンドロイドのレオナが見守るなか、息絶え、そして朽ちていく。
音もなく、ほんの少しずつ腐敗していく死体を長回しでじっくりと見せられることで、否が応でも、「死」について考えさせられる。
(特殊メイクアーティストのJIROさんが手掛けたこのシーン、一切CGを使わずに撮影しており、おそらく世界初の試みだろうとのこと)
BGMがほとんど使われず、時間をたっぷり使いながら静かにストーリーが進んでいく本作。
『さようなら』というタイトルのとおり、「死」以外にも、心のすれ違いや別れなど、人と人とのつながりが解けていくさまが立て続けに描かれていく。
淡々とゆっくり描かれることで、痛みがじわりと広がって、辛かった。
幸せな日々を求めるか、寂しさのない日々を求めるか
作中で、アンドロイドのレオナはターニャにしばしば詩や短歌を読み聞かせる。
たとえば、カール・ブッセの「山のあなた」。
山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫ああ、われひとと尋とめゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
上田敏訳 『海潮音』より
※参考:カール・ブッセ 「山のあなた」
若山牧水の「幾山河」。
幾山河 越えさり行かば 寂しさの
終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
※参考:幾山河 詩歌紹介
この2篇を読んだレオナの
「ドイツでは幸せを求め、日本では寂しさのない世界を求める。おもしろいですね」
というセリフがひどく心に残った。
私も、寂しさのない、安定した日々が欲しい。
日本人発想、ということなのだろうか。
物語の後半、ターニャとレオナの会話の中で、「アンドロイドの持ち主が、やけになってアンドロイドを壊すことがある」という話になる。
レオナは、壊してすっきりしてもらうという方法で人間の役に立てる、と話しつつも、「多くの人は、後悔するようですよ」と言い残す。
伝聞形で語られたその言葉に、人間がいかに寂しがりかを知らしめられた気がした。
たぶん、「寂しさのない日々」は来ないのだ。
寂しさを埋める何かを手にしても、慣れればそれは、寂しさを埋めるものではなくなってしまう。
存在のありがたさを見失い、自分の機嫌の波に飲まれて鬱陶しいと壊し、失い、その存在の大きさに気付くのだ。
そういえば、物語の序盤にも印象に残る台詞があった。
物語の中で行われている、放射能汚染から逃れるための避難。
これは政府主導のもと行われており、さながら大学受験の合格発表のように、定期的に「避難してOK」な人が街の掲示板などに貼りだされるのだ。
残念ながら、ターニャと、その友人女性の佐野さんはなかなか名前が貼りだされない。
「どうせ独身の中年女は後回しだから」
掲示板を見て、自分に言い聞かせるように、佐野さんは声に出すのだ。
(実際は別の理由があるのだが)
どうせ私は後回し。
10年後の私が言っていそうだなあ、と思った。
こんなことを言うのは、自分に自信が持てなくて、寂しいからだ。
誰も私のことなんて求めていない、必要としていない、価値がない、と。
寂しさに囚われて口から出た言葉は、音となって耳に入ってきて、より一層その想いを強くするだけ。憂鬱スパイラル。
きっと「幸せを探す」という発想なら、そんなことは言わないだろう。
いまという時間のなかで、幸せに過ごすためにはどうすればいいかを考えるのだ。
ないものねだりをする前者に対し、なんと現実的で、有意義な考え方だろうか。
幸せは「探す」のではなく「気づく」もの
幸せを探す、というと、小山薫堂さんの言葉を思い出す。
雑誌「dancyu」の2016年1月号。
同誌にゆかりのある方々が、おすすめのお店を1軒紹介するという特集だった。そのなかで薫堂さんはこんなことを書かれている。
「幸せは探すものではない。気づくものである」という自分の座右の銘になぞらえて言うならば、いい店とは決して探し続けるものではなく、気づくものだと思う。
美味しい店を探すよりも、美味しいと感じることのできる能力が長けていたほうが人はずっと幸せになれる。
ご紹介されていたのは、高級店でも、”予約が取れない”で有名なお店でもなく、ふらっと立ち寄れる、町の洋食店だった。
多くのお店が紹介されていたが、私がいちばん行きたいと思ったのは、薫堂さんが挙げたお店だった。
人間だから、自分のために生きる
ターニャは死の直前、もうほとんど人がいない町にある自宅で、電気もつけず裸でソファに横になる。窓は開けっぱなし、放射線が紛れているであろう外の風が、ゆるりゆるりと部屋に入り込んでくる。
病弱な彼女は咳込み、窓から顔を外に出して嘔吐するのだ。
若い女性としての尊厳を失った姿にゾクリとした。
そのまま再びソファに転がり、息を引き取ったターニャは、前述のとおり徐々に朽ちていく。「ターニャ」から「物」になっていく。
親と過ごした時間、恋人との関係、子どもとの関係に悩む友人への想い、自分の「人としての価値」。アンドロイドではなく人間だから、悩み、もがいた。そんな「ターニャ」が、「腐敗物」になっていく。
なんと、あっけないのだろう。
「その人が死んだ」という事実を知ることはできても、「どんな気持ちで生きたか」は、その人とともに天に昇華し、第三者は知る由もない。
深く悩みながら生きていても、それを誰かに「辛かったね、がんばったね」と労ってもらうことなんて、できないのだ。
じゃあどうせなら、自分が満足できる一生を送りたい。
そしてその「満足」とは、自ら感じ取りにいくもの。じっと待っていたって、満足は訪れない。
「幸せを探す」のだ。
薫堂さんの言葉を借りるならば、「幸せにきづく」。
書くはたやすいが、いまの私にはまだまだ難しい。
自転車の乗り方のように、コツさえつかめば、感じ取れるようになるのだろうか。
「車体が倒れる前にペダルを漕ぐんだよ!」と言われても、身体がついていかないのだ。頭ではわかっているから、もどかしくてイライラする。
転んでベソかいて「もういい!」と言っていたあのころと、30になった今と、何も変わらないのだなあ。
それでも自転車は、いつの間にか乗れるようになっていた。
転んでも、泣いても、もう嫌だとヤケッパチになっても、自転車に乗ることをあきらめなかったからだろう。
一生を終えるころ、私は幸せにきづけるようになっているだろうか。