罪悪感というのは本当に! なにも! いいもんを生み出さないよなあ! と思う今日このごろです。
それがわかっているのに、勝手に湧いてくるのだからタチが悪い。
- 手放そうとしても追いかけてくるのが「罪悪感」
- 稼いでいない私は家事育児を全部やらなきゃ、社会に刺される(はず)
- 脳内政府のプロパガンダ
- 「ありがとう」ではなく「ごめんね」と言っていることに気づく
- 「申し訳ないんだけど」と言わずに依頼してみよう
- 自己啓発本が語る「罪悪感との向き合い方」はダイジェスト版すぎる
- 「感情は先着順」だと熱く伝えたい!
- 「罪悪感の代わりに感謝を!」実現のためには「厚かましい言動」が必要
手放そうとしても追いかけてくるのが「罪悪感」
「三つ子の魂百まで」といいますが、「義務教育中の魂」くらいは百までつづいてしまうのではないでしょうか。
令和の教育現場事情はわかりませんが、私が小学生だった平成初期においては、まだまだ「我慢はえらい」「犠牲になれる人はすばらしい」「怒られた直後にケロッとラーメン食ってんじゃねェ!」という価値観が掲げられていたように思います。
そんな時代背景と、もともとの性格があいまって、私はなにかと「自分を責める材料」を拾って生きてきてしまいました。
▼その結果、こんなエッセイを書きました
「お金を稼ぐ仕事をしていない私に存在価値はない。ただの穀潰しだ」なんていう自責は筆頭例です。
このブログの紹介文や私のSNSのプロフィールでは「専業主婦に誇りを持つ」「自分を犠牲にしないラクな子育てをする」といったことを書いていますが、ほんのちょっとの刺激で、いともたやすく「私はダメ人間だ……」な心境に引き戻されてしまうのが実情。
ヤフー知恵袋(に限らずでしょうが)名物の「専業主婦叩きコメント」を一瞥した程度で、そうなります。
同志よ、あそこはアクセスしないが吉ですぞ。
稼いでいない私は家事育児を全部やらなきゃ、社会に刺される(はず)
子どもの月齢は1ヶ月半くらいになりました。
前回記事でも書いたとおり、まだまだ、赤子と私の毎日の衣食住をキープするだけでせいいっぱい。トイレのタイミングも逃しがちです。
ただこれ、「子育て中の身」のみならず、家事や仕事、介護などなどで忙しく過ごしていればみんなそうなります。
そして時間にも体力にも余裕がない生活を送っていると、心も消耗するものです。
▼たとえば、こんなふうになります
「罪悪感持ちたがりマン」(=私)の場合、他意のないごくふつうの言葉ですら、自分を攻撃していると捉えるようになります。
つい先日、年度末激務に追われている夫との些細なやりとりを通じて、そのことを自覚しました。
私は基本的に、彼に引け目を感じています。
だってお金を稼ぐ仕事をしていないうえに、「お金をいただくお仕事」が苦手なもんで、子どもがある程度大きくなっても再就職できない可能性があるから。
ヤフー知恵袋民からすれば、私はわがままで、厚顔無恥で、暇で生きてて辛くないのかと心配されるような人間でしょう。
(ヤフコメとかでも格好の餌食になりそう)
そうそう、日本古来より引き継がれる伝説の言葉、「働かざるもの食うべからず」にも刺激をいただきます。
だから
「お金を稼げないならせめて、子育てや家事は一手に引き受けなければ!」
と思うようになるのです。
したがって、夫が家事や育児を手伝ってくれるときというのは、代表的な「罪悪感ポイント」となります。
お礼より先に「ごめんね」が出てくる始末。
脳内政府のプロパガンダ
つい先日もそんなやりとりをしました。
夫はこういうときによく「しょうがないよ」と言うのですが、これを聞くと私の罪悪感はさらに募り、イライラしたり、メソメソしたりする傾向にありました。
しかしそうした気分でいるのは、我ながら疲れます。
そのときはたまたま、体力にゆとりがあり、罪悪感からくる疲労から解放されたいという思いが強かったのでしょう。
「どうして『しょうがないよ』と言われると、胸が苦しくなって、『こんな私でごめんなさい』という気持ちになるんだろう」
と自問できたのです。
その答えは、夫の「しょうがないよ」前後のセリフを私が捏造していたからでした。
「しょうがないよ(誰かが犠牲にならないといけないんだから)」
といったように、「私のせいで夫が犠牲にさせられている」ムードになるような幻聴を、自らつくりだしていたのです。
私はその場で、夫にこの発見を伝えました。
そして
「あなたの『しょうがないよ』って、もしかして『オッケー、大丈夫』くらいのニュアンス?」
と確認。
そのとおりだとの回答でした。
勝手に、自分がうまく傷つくように翻訳ミスをしていたとは!
私の脳内政府のプロパガンダ、恐るべし!!!
「ありがとう」ではなく「ごめんね」と言っていることに気づく
脳内政府の手の内が見えたとたん、夫とのコミュニケーションにおける私の口癖や考え方の傾向が「おかしい」ことに気づきました。
- 家事や育児に関わることをやってもらったときは「ありがとう」ではなく「ごめんね」と言う
- 家事や育児に関わることをお願いするときは「できたら」「申し訳ないんだけど」という枕詞がつく
- 夫がよく使う調味料などを食卓に持ってくるのを忘れると、心のなかで「ごめんなさい」を連呼して泣きたくなる
ほかにもまだまだあるのですが、とくに1と2は顕著です。
夫が「いまの時代、男が家事育児に携わらないと指をさされるからなァ……」という「渋々お手伝い」型ならわかりますが、彼は180度異なる考え方の持ち主です。
大変に協力的だし、むしろ「ワンオペなんて大反対!」派。
家事や育児に関する罪悪感は、完全なる自爆案件だったわけです。
「申し訳ないんだけど」と言わずに依頼してみよう
それで思いついたのが「ちゃっかりキャンペーン」!
「悪いんだけど」などと引け目を抱かずに、「おむつ替えてもらえる?」「洗濯お願い」などとしれっとお願いするのです。
ただし、相手に「できないときは無理しない、ちゃんと断る」という大前提も設けます。
断られたときに自己犠牲モードにならないのも大事なルール。
たとえば洗濯をお願いして断られた場合、「結局私がやらなきゃならない!」とヤケッパチにならずに「じゃあ明日にまわすか」「乾きにくいものだけやっとくか」といった具合で、誰も犠牲にならない道を探ります。
正直なところ、お願いするときの申し訳なさや「私、サボってるなあ……」という罪悪感は拭えません。引け目、感じまくり。
それでもいいのです。言葉だけは「ちゃっかり」モードにする。
いつもどおり「悪いんだけど……」とお願いしても、気持ちを新たにちゃっかりモードでお願いしても、夫は変わらずに依頼を引き受けてくれます。
でもその後の自分の気持ちが、ちょっとだけ違うのです。
申し訳無さ、自責感の代わりに、やってもらえるとラク、うれしい、ラッキー、という「ちゃっかりハッピー感覚」が得られる。
すると、そのあとの展開が変わってくることに気づいたのです。
非常にシンプルな結論ですが、ごくふつうに、自然に、「ありがたい」と思うようになります。
「本当は辛いけれど、家事育児は私の仕事なんだからやらないと」という気持ちだと、どれだけ家の中の仕事をがんばっても、「お金を稼いでいなくてすみません」という罪悪感はむしろ強化されていました。
そのくせ、夫が休日に少しテレビゲームでもやろうものなら、「私にはそんな時間ないのに!」とむかついた。
(セルフツッコミをすると、優先度を変えるだけで、時間なんていかようにでも捻出できるものです)
自責、他責、他者との比較にまみれた日々です。
でも「ちゃっかりキャンペーン」を実施していると、そうした気持ちが湧きにくい。
「湧いてくる余地がない」という表現がしっくりきます。
自己啓発本が語る「罪悪感との向き合い方」はダイジェスト版すぎる
さて、やっと結論です。
ここからが本当にお伝えしたいことなのです。
自分の考え方のクセと、「ちゃっかりキャンペーン」を通して思ったことがあるので、よかったらもうちょっと聞いていってください。
「罪悪感」や「自己肯定感」は自己啓発本の格好のテーマ。
Amazonで検索すれば、もりもりとアドバイス書籍が並ぶことでしょう。私もさんざん読んできました。
そこにはよく
「罪悪感をもつのではなく、感謝をしましょう」
「できないことがあっても、助けてもらえばいいんです。できない自分を悲観せず、受け入れましょう」
といったことが説かれています。
毎回「うんうん、そうだよね」と思いながら読むものの、うまく感謝できなかったり、だめな自分を否定しつづけたり。
「感謝しなければいけないのにできない私は、本当にだめだ!!」と、かえってネガティブになっていくこともありました。
しかし「ちゃっかりキャンペーン」をやってみて思ったのです。
「自己啓発本よ、世界名作劇場レベルに細かく語ってくれ」と!!!
令和時代のアニメからは想像もできないでしょうが、世界名作劇場は1年を通じて物語を描きます。
するとどうなるか?
小公女セーラはいつまでたっても貧乏にならないし、ふしぎな島のフローネは一向に漂流しないのだ!!
貧乏になるまで、漂流するまでの経緯を、贅沢に何話も使って語っているわけです。
罪悪感の手放し方や自己肯定感の高め方だって、自己啓発本のたかだか1章ぶんくらいの説明で得られるものではないと思います。
「罪悪感ではなく感謝を」という説明は、かなりのダイジェスト版だということ。
紙の枚数等の制約があるから、ワークショップのようなページが設けられているのではないかと思います。
もちろんテーマの性質的に、「一方的に”こうあるべし”を伝えるのではなく、読者が自分と向き合い、考え、納得した答えを見つけてほしい」という意図もあるでしょう。
でも「罪悪感を抱えまくって自己肯定感ゼロ状態」の人間が、紙に書かれているワークを実践するなんて至難の業だと思うのです。
自転車に乗れる人が、まったく乗れない人に「転ぶ前にペダルを漕げば進むから、やってみて」と言っているような感じがします。
「感情は先着順」だと熱く伝えたい!
罪悪感を抱くクセを36年抱えてきた身として感じているのは、
- 罪悪感がある状態だと、感謝しようにもできない
- 罪悪感はいきなり捨てられない(勝手に湧いてくるから)
ということ。
そして、感情は「先着順」で構成されているのではないかな、と思うに至りました。
心のなかでビーチフラッグスが行われているイメージです。
だから先に「罪悪感」が旗をとると、「感謝」は敗者となり、その場に居続けられない。
いくらケイン・コスギであろうとも、池谷直樹が旗を取れば姿を消さなくてはならないのと同じようなもんです!!
(『最強スポーツ男子頂上決戦2022』を観て、レジェンドの姿に胸アツになった影響がここに!)
前述の通り、最近は「ちゃっかりキャンペーン」と称して、「これやって」「あれやって」と言ってみたり、「やっておいたほうがいいかな」と思うことをあえてサボってみたりしています。
だけどキャンペーン中はほぼ絶対、心のなかでは「申し訳ないな……」「私がやるべきなのに……」という罪悪感が渦巻くのです。
この現象、ビーチフラッグスの例を借りれば、「罪悪感さんがスタートダッシュに強い」というところでしょうか。
ところがお願いしたことをやってもらえたり、サボったことを咎められなかったりした現実を目の当たりにすると、感謝の気持ちやハッピー感が湧いてきてしまうのですよ!
感謝さんが罪悪感さんを追い抜いて、旗をぐいっと取っていってしまう瞬間!
つまり「罪悪感が出てきてしまう」こと自体はまったく問題がないので、「ああ、また自分を悪いと思ってしまった」と自責する必要はないということ。
感謝さんを勝たせるために必要なのは、「ちゃっかりお願いしたり、サボったりする勇気」なんだと思います。行動です。
気持ちは罪悪感まみれでOK!
「罪悪感の代わりに感謝を!」実現のためには「厚かましい言動」が必要
まだ私もこの段階を実践中なので先の展開を約束できませんが、たぶん、この「ちゃっかり成功体験」を積み重ねていくことで初めて
「罪悪感を持つくらいなら感謝しよう」
「できない自分を受け入れよう」
「助けてもらえる自分を自覚しよう」
といった、自己啓発本が説く状態になれるのではないでしょうか。
成功体験の積み重ねは筋トレみたいなもんで、短期間での劇的な心境変化はないでしょうし、油断が続けばすぐにリバウンドもするでしょう。
目に見えないぶん、筋トレより厳しい戦いだと思います。
でも筋トレよりいいこと(?)も!
「ちゃっかりお願いする」「ちゃっかりサボる」が成功すると、(罪悪感は募るかもしれませんが、)結果的に自分はラクできるのでおトクだということです(笑)。
ついついいつものクセで「こんなことを頼むなんて厚かましいよなあ」なんて自責してしまいますが、厚かましさ上等! しれっとやりきるのが肝ですね。
心のなかは操縦できないので、ソワソワ、ドキドキしてしまいますが、それでいいんです!(自分に言い聞かせている)
そうそう、昨年、妊娠を機に「ネガティブな自分を変えたい! 自己受容力を高めたい!」という思いで『できたこと手帳』なるものを購入しました。
毎日コツコツ、できたことを3項目書き続けていますが、どうも腑に落ちないんです。
もしかして「できたこと」より、誰かに代わってもらったこと、サボったこと、ラクしたこと……といった、「やらなかったこと」をリストアップしたほうが、罪悪感解放に効くのかも?
ちょっと、Twitterでやってみようかなあ。
話がまとまらなくなってきたので、ここまでといたします。
世界名作劇場ならぬ、罪悪感手放し劇場の第1話ってことでご勘弁ください。
今回も長々お付き合いいただきありがとうございました!