言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

育児日誌ブログ「母になっても言いたいことやまやまです」を毎週月曜日に更新中!

素直に幸せを受け入れることにした

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迷いと決断を経てフリーランスになったけれど

2019年4月、10年間の会社員生活を経て「成り行きフリーランス」になりました。

「フリーランス」というと会社員時代に培ったスキルを活かして独立するイメージがありますが、成り行き上、丸腰で開業届を出してしまいました。ゆえにカギカッコ付きで「成り行きフリーランス」と称しています。

直前まで勤めていた会社は4社目となる職場でしたが、なんと2ヶ月ぽっちで辞めています。

これまで真面目一辺倒で生きてきました。言いつけを守ってきました。できなくても人生困らないと思いつつ逆上がりの自主練に励んだ反抗期が懐かしい。

2ヶ月で辞めるようなやつは辛抱が足りんのだ!くらいに思っていたことは否定できません。そんな当人が辛抱足りんマンになってしまうだなんて。人生なにが起こるかわかりません。

 

「会社辞めたんだって?いま何してるの?」

 

自分でも何者なのかわからない日々を送っています。

こうしてブログを書いて、たまにライターをして、PowerPoint職人をやったり、コワーキングスペースの手伝いをしたり。

到底食っていけない収入です。齢34にして主人のスネかじり。小遣いだけは自分で稼ぐプータローといったところです。

しかし実は、退職することへの迷いは一切ありませんでした。

直前の職場は素敵な会社でしたが、努力では埋められないほど、メンバーと私の「基本的なものの考え方」が相容れなかったのです。同じものを見ていても、彼らにはそれが青に見え、私には赤に見えるような感覚がありました。

複数回転職を重ねても、こんなもんです。働いてみないとわかりませんね。

採用してくれたことへの恩と、期待に応えられない申し訳なさはありました。

それでも一度きりの人生、しかも女で34とは企業戦士として若くはありません。時間を無駄にはできない。なかば逃げるような形で退職を申し出たのでした。

「転職活動をしない」という選択

辞めるまではよしとして、問題はその先です。

次の転職活動をどうするか。

これまで転職先を決めずに会社を辞めたことはありません。安牌を切り続ける人生を歩んできたのです。当然今回も、退職準備と並行して転職活動をしているはずでした。

ところがなぜか「会社勤めをする自分」がイメージできなかった。

昔から憧れていたエッセイストに近づくための活動、大好きなPowerPointをいじりまくる仕事への興味、会社の名ではなく自分の名でチャレンジしたいという想い。

どれかひとつではなく「複業」として、すべてやってみたかったのです。

会社員をしながらその夢を叶えるのは大変に難しいことでした。働き方は多様化しているなどと言うけれど、やっぱり副業NGの会社は多いし、週3勤務希望などと言えば鼻で笑われる。

転職エージェントに「一応」登録してみましたが、これまでのキャリアを活かした場所でなければ、34にもなる女は箸にも棒にもかからないことがよくわかりました。

挑戦を叶えたいなら、企業に頼らず自分でやるしかない。

退職してプータローになる今こそ、実現のチャンスです。

不安といえば、圧倒的な収入減マウント力の喪失

これまでそれなりに名のある企業で勤めてきました。自己紹介時にマウントが取れなくなることが収入減と並列で挙げられるほど、私は他人からの目を気にして生きてきたのです。ああ、しょうもない人生!

でも人間、いつ自由がきかなくなるか、命が途絶えるか、わかりません。いまやらねば絶対に後悔する。

幸いにして私には主人がいます。厚かましいけれど、彼さえOKを出してくれれば食いっぱぐれることはありません。

節約生活、受け入れます。金持ちの友人を見ても卑屈になるもんか(Facebookに要注意)。自己紹介マウンティングなんてダサいことはもうやめよう!

 

覚悟を決めて主人に「フリーでやっていきたい」と相談すると、応援するでも反対するでもなく、淡々といつもどおりの調子で

「1人くらい養えるから平気」

過剰に励まされるのも実はつらいものです。彼の反応にはとても救われました。

かくして私のフリーランス生活が始まったのです。

幸せへの罪悪感

起きる時間も寝る時間も仕事をする場所も、何もかも自由な日々。子育てもしていないので、仕事をしていない時間のほとんどは「自分の時間」です。

 

夢のよう!幸せ!

 

……とは、いきませんでした。

待っていたのは「罪悪感に苛まれる日々」です。

 

何気なく入店したコンビニでコーヒーを買う。店員さんと相対する。

「彼は真面目に一生懸命働いているのに、私ときたら……」

のうのうと生活している自分が情けなく思えました。

 

「会社辞めたんだって?いま何してるの?」への返答は、適当にはぐらかすようになりました。正直に答えたら最後「いいねえ」「羨ましい」という反応が返ってくるに違いなく、それは私の耳に「いい気なもんだね」「人生なめてるね」と翻訳されて届くからです。

 

五体満足で健康そのものなのに、仕事をするでもなく、子育てをするでもなく、何にも貢献せずただ生きているだけ。

でも至極まともな衣食住環境が用意されていて、その恩恵を貪り食っている。穀潰し。なんと厚かましい生命体なんだろう!

 

それほど申し訳ないと思っているならば、エッセイ執筆の練習を重ねたり、その他自分ができる仕事を増やせばいい。その努力すら怠っているのです。

なにかがんばっていることを強いて挙げるならば、大嫌いだった料理も含めた「家事」くらいでしょうか。ただそのモチベーションは「義務感」でした。

「このくらいやらなければ申し訳が立たない」「養ってもらっているのだから、やらねばならぬ」「主人が家にいるときは快適な環境を用意しなければならない」……

 

何ひとつとして褒められる要素がなく、自分が嫌になる毎日です。

 

罪悪感を抱えることで「決断」から逃げていた

だらだらと「めんどうくせえ女」っぷりをお読みいただくばかりで恐縮です。ここからが本題です。 

「迷いと決断」というテーマでブログ記事を書くにあたり、もともとはこの「フリーランスになる決断」を綴る予定だったのです。

しかしご覧の通り、書けば書くほど「迷い真っ只中」であることが浮き彫りになりました。

フリーランスを選択したものの、フリーランサーとしての自分を受け入れていないことに気づいたのです。

真の意味で決断できていない。例えるなら「もぐもぐしているだけで飲み込んでいない状態」です。

「安定収入がなくなる」「いい感じの肩書きがなくなる」……そんなリスクを負うことへの覚悟は決めたつもりだったけれど、結局「罪悪感」を盾にして自分の人生から逃げているじゃないか。 

言い訳をつくらずに「自分を生きる」

フリーランスを選択したころ、アドバイスをくださった方がいました。彼ら2人の言葉をふと思い出したのです。

「フリーでやるつもりなんです。夫の扶養に入ればなんとか生きていけるかなって」

フリーランスでもう5年以上活躍しているAさんに会ったときのこと。すでに私には罪悪感があったので、彼と目を合わせることなく自嘲気味にそう話しました。 

「いいと思います」

からかうでもなく、投げやりにでもなく、至極まじめな賛同の声が返ってきたのを覚えています。

「扶養に入れるというのは"権利"です。このラッキーを使わなきゃもったいない。権利を使うからこそ、チャレンジができるんじゃないですか!」

私はバリバリ働ける体力を持っているのに、子育てに励むでもなく、企業にも勤めず扶養に入ってやりたいことをやろうとしている。

それを「わがまま」で「厚かましい」ことだと思っていたけれど、Aさんは「堂々と使うべき権利」だと背中を押してくれました。

初めて出会う価値観に、目からウロコが落ちる心地で話を聞いたのだっけ……。

 

そして別の機会に会ったBさんは「仕事とは"役割"のこと」だと教えてくれました。

「ご主人に笑顔で接する。心からありがとうと言う。この“役割”には特別な価値があるんです。“仕事”に匹敵するんですよ」

……となると、お金を稼げないことへの罪滅ぼしとして渋い顔で家事をするくらいなら、料理をせずに満面の笑みで主人と接するほうが、よほど「働いている」ということになります。

そんな風に考えたことがなかったものだから、拍子抜けして「はァ、そういうものですか」なんて適当な返事をしてしまった気がする。

 

いま思えば当時の私は「会社勤めからの脱出」で精一杯になっていて、アドバイスをいただきつつも上の空になっていたのでしょう。

彼らの言葉を思い出し、画面に打ち込んでいるまさに今、目が醒めていく心地がしています。

 

「働けるのに働かないなんて申し訳ない」という罪悪感で心のカロリーを使うことが、いかに不毛か。

「チャンスの神様の前髪を掴んだのだ」とでも思って堂々としておけばよいのです。厚かましいだなんだと言われたら、言わせておけばよいではないか。否定の声に迎合したら、フリーランスを選んだ理由がなくなります。

本当に労力をかけるべきは「やりたいことへのチャレンジ」です。

 

そして「養われる身分」として自分を貶めることの馬鹿らしさよ!

養うから偉い、養われるからダメだなんてことはないのです。少なくとも我が家にはその価値観はありません。私が勝手にひとりで暴走していただけ。

背を曲げず、前を向いて堂々と生活する。

伝えるべき想いは「申し訳ない」ではなく「ありがとう、だいすき」です。

その思いを他ならぬ私が伝えるからこそ、主人の力になるものと信じます。これは「代えがきかない、私にしかできない役割=仕事」なのです。

サラリーマン時代、そんな仕事を担当したことがあっただろうか?いや、ない!

 

もう逃げない。私は「幸せフリーランス」だ!

この記事をきっかけに、私は「目の前にある幸せ」を素直に受け入れることを決断します。

私の性格なのか、日本人の習性なのか、人間のサガなのかはわかりませんが、幸せを素直に受け取るとはなんと難しいことなのでしょうか。

苦労なくして幸せになってはならない、と思い込んでしまうのです。

衣食住に困らない生活を送りたいなら粉骨砕身して働かねばならぬ。養ってもらいたいなら育児に従事すべし。そんな努力もせず「やりたいことをやる」とは言語道断なり!

「こんなわがままな生活を送っていることを、情けないこと、申し訳ないことだと自覚しています」。

「渋々家事」は言い訳行動のひとつだったわけです。

 

この記事を書く過程で、「苦労なく幸せになってはいけない」という思い込みが無益で虚しいものであることに気付きました。

私にしか使えない「ラッキー」が目の前に転がっていたのです。使うのを遠慮したところで、そのぶんの幸せは誰かのもとに届くのでしょうか?

申し訳ないと思う暇があったら、笑顔のひとつでもつくる。やりたいことに邁進する。与えられた環境を謳歌し、「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」を唱える。

後ろ指を刺されても、気にする必要はありません。「幸せを得るためには苦労しなければならない」という土俵から降りることにしたのです。いいご身分だねと嫌味を言われたら「そうなの羨ましいでしょう」と張り手で突き返せばいい。

 

これまで培ってきたスキルがあろうがなかろうが、扶養に入っていようがいまいが、子育てしていようがいまいが、堂々と言います。

「私は当面、フリーランスでやりたいことをやっていきます」。

 

今日の夜ごはんは、主人の好物だからカレーにしよう。